April 17h, - 23rd, 2010 Vol.17 No.16

十字架を見上げて自分を吟味する  コリントの信徒への手紙2 13章

 

A. この手紙の全体を通して私たちが問われていること

1) あなたは弱い?それとも強い? (1-4)

わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。(1) 以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。(2) なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。(3) キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。(4)

この半年間、私たちはコリントの信徒への手紙2を続けて読んできました。今回はパウロの立場に立って考えてみることが多かったのですが、最終日の今日はパウロが私たちに書いてくれているという意識で聞いてゆきましょう。まずここでキリストは私たちの間で強い方だという事を再確認しましょう。しかも、イエスキリストの強さは徹底的に弱さの中に現される強さです。ご自身では十字架につけられるという全く弱い姿を隠されようともせず、十字架刑という苦しく、恥ずかしい死を受け入れられました。それは、神様が本当に弱いもの小さいものの弱い者の力となられるために、ご自身を世に現された姿でした。私たちが弱く、全く当てにならない自分の力ではなく、神様の力で歩もうとするなら、自分が強い者であるかのようにふるまう必要はありません。私たちは実際無力ですが、それを認めてイエス様に従うなら、弱い者のために自分の命を惜しまないほど強く、神様の力でイエス様と共に生きることができるのです。

 

2) 信仰を持って生きていますか? (5-7)

信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが…。(5) わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。(6) わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。(7)

パウロは「あなたは信仰を持って生きていますか?」とクリスチャンに問うているのですからそれは、決心をしましたか、バプテスマを受けましたか、教会員になりましたか、という問いではありません。あなたはクリスチャンにふさわしい歩みをしていますか?という問いです。しかも、それは自分でよく吟味してみなければわからないことだというのです。見てわかるような、例えば、どれほど熱心に聖書を読んでいるのか、祈っているのか、教会に通っているのか、神様の働きを担っているのか、献金をしているのかといったことではないのです。パウロは言います。「あなたの内にはイエス・キリストがおられるのに、あなたがたはわかっていない。」 あなたは、あなたの内にキリストがおられることを知っていますか?どうしたらこの確信を持つことができるのでしょうか?この問いは、私たちが個人的に問われているというより、むしろ、家族として共同体としての教会に問われていることです。答えはこの後の部分にあります。

 

B. 健全な教会であるための勧め

1) 真理に従って歩もう (8-10)

わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。(8) わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています(9)。遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。(10)

真理とは簡単に言えば「本当のこと」です。もう少し詳しく言うと、「歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかになる本当のこと」です。ですから、それに従うことができれば、正しい生き方、良い生き方、迷いの無い生き方が出来そうです。問題は何が本当のことなのか?ということです。この世界で一番気に入られている考えは、「わたしの考えがわたしの真理」というものです。自分の思い通りに生きようとすることが、本当の生き方、真理を追求する事だというわけです。競争し、奪い合い、少しでも人の上を、前を目指すために、勉強も、仕事も、宗教までが自分の繁栄のための道具になっているようです。しかし聖書はそう教えてはいません。真理は私たちの中にではなく、神様の中にある。神様のお考えこそが真理です。イエス様は大胆にもこうおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ14:6-7)  あなたはこの言葉をどう思いますか?全くバカバカしい妄言として拒絶するのか、それともこの方を主と認め従うのか、選択肢は他にはありません。実際、当時の人々は拒絶し彼を十字架にかけて殺しました。けれどもことはそれで終わりにならなかったのです。イエス様はよみがえられ、よみがえられたイエス様に再会した弟子たちは、それまでユダヤ人の迫害を恐れて逃げ隠れしていた姿とは、打って変わって殉教すら恐れずに伝えるものとなりました。多くの宗教が歴史の中で消え去り、あるいは形骸化し変質していった中で、イエス様の福音だけが変わることなく伝えられてきたのは、イエス様の言葉が正しかったからです。イエスキリストに従って生きる以外に、人が人らしく生きる道はありません。

 

2) 祝福のなかを歩もう (11-13)

終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。(11) 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。(12) 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(13)

パウロの手紙の結びの中でも、最後の部分です。ここに来てパウロはずいぶん沢山の注文をしているかのように見えます。喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。そう、これらはコリントの人々がいつも神様と共に歩めるよう、という願いからの勧めです。最初から神様はインマヌエル(共におられる)方ではなかったのか?確かに神様はイエスキリストとしてご自身を現されました。来てくださっているのです。けれども私たちは、共にいてくださる方を無視していることもできるのです。ある人々は、神様を無視していながら、神様はなぜ願いを叶えてくれないのだろうと文句を言っています。それがパウロに「あなたの内にはイエス・キリストがおられるのに、あなたがたはわかっていない。」といわれたコリント教会のような教会の姿です。私たちがこの家族に人々を招き入れたいと思っても、誰が、親である神様を愛さない、互いに愛し合っていない、喜びも、一致も、平和もない家族の一員に加わりたいと思うでしょうか?これらのことを私たちは自分で作り出すことはできません。それはまず礼拝の中で、そしてミニチャーチの中で、私たちの働きの中で、聖霊が働いて実現することです。さあ、聖霊による喜びを求めて、成長を求めて、平和と一致を求めてしばらくの間、心からの礼拝と賛美の歌を捧げましょう。聖霊よ、どうぞ今ここに来て下さい。

 

メッセージのポイント
コリントの信徒への手紙IIの全体を通して、「私たちの弱さの中に、神様の強さが現され、主イエス・キリストを信じる者はその力によって生きることができる」ということを学んできました。ここでいわれる完全な者とは欠点のない人間ということではありません。完全な者とは真理に従う者です。真理とは神様の意思です。神様の意思に従って歩むなら、その人は愛によってもたらされる喜び平和の道を歩むことになるのです。私たちは毎週、日曜礼拝の終りに、真理の道を歩むように祝福の言葉で送り出され、それぞれが遣わされた場所で真理を行うのです。

話し合いのヒント
1) 私たちはどのような力で生きているのですか?
2) 真理とは何ですか?