May 8th, - 14th, 2010 Vol.17 No.19

恵みによって召し出して下さる神様  ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

A 迫害する者を宣教する者に変える神様

1) 啓示によって変えられる (11-14)

兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。(11) わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(12) あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。(13) また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(14)

人はどのようにしてクリスチャンになるのでしょうか?クリスチャンとはどのような人なのでしょうか?今日のテキストの前半で知る事が出来ます。それは第一問の答は「啓示(神様からの語りかけ)によって」 です。大抵の人は、人からの説得によってとか、クリスチャンの家に生まれたからだと思っていますが、それは違います。パウロは実際、誰から説得をされたわけではなく、イエス様から直接呼びかけられるという不思議な出来事によって、クリスチャンになりました。皆さんはどうだったのですか?実はクリスチャンの誰もがパウロと同じように、神様の語りかけによってクリスチャンのなったのです。もちろん、私たちには、パウロとは異なりイエス様のことを紹介してくれた誰かがいます。しかし、説得されてとか取引によってクリスチャンになった人は一人もいません。イエス様の事をあなたに伝えた人の気持は、自分の人生を根本的に変えてしまった、自分にとって一番重要な方を、大切なあなたにも是非知ってもらいたい、というものだったはずです。神様は、パウロのようにクリスチャンに敵意を持っている人でさえ、憐れまれ、愛して宣教師に変えることができるのです。わたしがクリスチャンになったとき私の家族は、私が人の説得に応じてクリスチャンになったと思ったのです。しかしクリスチャンに出会った事はきっかけに過ぎません、本当は神様の語りかけに応えたのです。私は、神様を信じられなかったのではなく、神様を完全に否定していていました。だから神様は、パウロのような大きなスケールではないかもしれませんが、私たちの人生も180度変えられたのです。

 

2) 恵みによって召し出される (15-17)

それでは、次の部分から、クリスチャンとはどのような人なのでしょうか?という第二の問いに対する答えを見てゆきましょう。

しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。(15-17)

私たちは、聖書の勉強をしてテストに合格したからでも、これからはこういう戒律を守りますと誓ったからでもなく、イエス様の「私に従ってきなさい」と呼びかけられていることを信じてクリスチャンになったのです。パウロが、選び分け、恵みによって召し出して下さった、と言っているように、自分が特別な努力をして認められたからでも、他の人に比べて何かが優れているからでもありません。クリスチャンとは、ただ神様の自分に対する特別な計画があることに気付いて、イエスキリストに従って歩んでいる人です。あなたにも神様の計画があります。だからいまここにいます。それはクリスチャンではない人も例外ではありません。クリスチャンとはイエス・キリストなしの人生はもうありえないと思っている人です。もしあなたが大切な友達に誘われてここにいるなら、イエス様が道であり、真理であり、命であるというその人の信念が本当なら自分も信じるべきだし、そうでないなら、偽りの教えから救い出さなければならないはずです

 

B 人はあなたのことで神様をほめたたえるか?

1) ペトロとだけ会見した理由 (18-20)

それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。

わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 パウロは、その他の使徒たちのように、地上を歩まれていたイエス様と行動を共にすることは出来ませんでしたが、誰に教えられるでもなく、不思議な方法で直接イエス様に出会いました。パウロを使徒と認めない人たちは、エルサレムの教会と関わりの無いパウロには正統な権威がないと主張していました。だからパウロは関係がないどころか、自分が彼らと同等の使徒であることを認められるように、知り合いになる必要があったのです。エルサレムにいる全部の使徒に会わず代表であるペトロとじっくり語り合い、イエス様の兄弟ヤコブにだけ会ったと書いています。そして彼らは、パウロが間違いなく主イエス様に出会い、異邦人たちのための使徒になったことを認めました。使徒たちの権威のもとにあることを認めてもらうためにいったわけではなく、他の使徒たちに会う必要もなかったのです。エルサレムの教会はユダヤ人の教会でしたから、自分たちの習慣となっている律法を守ることと、信仰によって正しいものとされるということの間にあまり矛盾を感じてはいませんでした。ユダヤ教社会の中で、できるだけ摩擦を避けたいという気持ちもあったのでしょう。しかしパウロの目から見れば、信仰によって救われるという大切な教えが徹底されていなかったのです。実際、ガラテヤの人々に律法を守らせようとした人々はユダヤ人教会のしきたりを異邦人教会にも守らせようとしたのです。パウロは異邦人の教会を律法主義から守るために使徒たちにもらった権威ではなく、イエス様にいただいた権威によって立てられていることをはっきりさせなければならないのです。

 

2) 自分のことで人々が神様をほめたたえるという幸せ (21-24)

その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。(21-24)  

パウロがイエス様に呼びかけられて使徒になって以来、パウロの噂はクリスチャンの間に広まってゆきました。それまではクリスチャンを迫害し、イエス様を信じる信仰を滅ぼそうとしていた者が、今は、イエス様を信じる信仰を告げ知らせるものになっている。これがパウロの人生の決定的な転換でした。人々の評判が気にならない人はいません。評判を気にするのは、行き過ぎて偽善的になったり、自分を見失ったりしない限り、悪いことではありません。あなたは、周りの人々にとってどのような人でありたいと思いますか?ここに最高の評判が記されています。「人がわたしのことで神をほめたたえている」 あなたが誉め讃えられるのではありません。あなたを見て神様が誉め讃えられるのです。そのためにすることは多くはないのです。それは、愛し続けること。良い知らせを告げ知らせることです。

 

メッセージのポイント
神様は、どのような人も変えることがおできになります。パウロの人生は180度変えられたのです。パウロのように、自分で変わるつもりのない人でさえ、神様は変えて用いられます。あなたの周りにも未来のパウロがいます。あきらめずに祈り続けましょう。またパウロのように劇的ではなかったかもしれませんが、あなた自身も変えられて新しくされた者であることを憶えましょう。あなたがイエス様に忠実に従って歩むなら、それを見て周りの人が神様は素晴らしいとほめたたえるようになり、あなたのまわりの一人一人が、主の恵みの計画に参与してゆくようになるのです。

話し合いのヒント
1) わたしが告げ知らせた福音は人によるものでない、とはどういう意味ですか?
2) パウロはアラビアに何をしに行ったのでしょう?