May 22nd, - 28th 2010 Vol.17 No.21

ペンテコステ:教会の誕生日  使徒言行録2章

A. そこで起こった出来事 (1-13)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(1-13)

この出来事を私が説教する必要はないでしょう。なぜならこの後、ペトロが十分説明してくれるからです。ただ皆さんの心に留めていただきたいことがあります。それはこの出来事が決して心理的なものではなく、目に見え、耳に聞こえる事実として起こったということです。だからこの時、人々には、弟子たちが酒に酔っていると思ったのです。また事実であったからこそ、その日、大勢の人がイエス様を主と信じ教会は始まったのです。そしてまた、2000年の間変わることなく、良い知らせを伝えることがつづいているのです。

B. ペトロの説教 (14-40)

1) 出来事についての説明 (14-21, ヨエル3:1-5, ヨハネ14:15-28, 1:4-5)

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(14-21)

それは旧約聖書 (ヨエル3:1-5)の預言の成就として起こりました。全く新しい時代、終わりの時が始まりのしるしです。イエス様の十字架と復活によって、もう救いを待ち望む時は終わったのです。よみがえられたイエス様は40日にわたって、彼らに現れましたが、ついに天に上げられ見えなくなって10日が経っていました。この聖霊の注ぎはイエス様ご自身も予告しておられました (ヨハネによる福音書14:15-28, 使徒言行録1:4,5)。あなたがこのことを聞いているということは、あなたにも救いの時が来ているということです。何が起ころうとも、主の名を呼び求める者は皆、救われるのです。主の名は何ですか?主の名を知らなければ呼び求めることができません。次の部分でペトロがはっきりと教えてくれています。

2) イエス様こそ救い主です。 (22-35, 詩編16:8-11,110:1)

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』(22-35)

さて、主を呼び求めるといっても、イエス様が自分にとってどのような方なのかを知ったうえで呼び求めるのでなければ、それは神様が嫌われる魔術的な呪文のようなものになってしまいます。そこで次の部分を読んでみましょう。

3) 主イエスを信じなさい (36-40)

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。(36-40)

ここにいた人々は、イエス様が捕らえられたとき、十字架につけて処刑しろと叫び続けた人々です。そのイエス様がよみがえられた救い主だということを圧倒的な聖霊の注ぎを目にして、耳にして恐れおののいたのです。本当は自分の主であった神様を否定し十字架にかける側についたのです。「私たちはどうしたら良いのですか?」ペトロは「イエス様にあんなひどいことをしたのだから、もう手遅れだ、呪われた人生を送るしかない。」とは言わなかったのです。なんと言ったのでしょうか?「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」と言ったのです。あなたも主に招かれています。罪を赦され、聖く、強く、優しい神様の霊に満たされて生きるように、招かれているのです。この言葉の後半に注目して下さい。この言葉はあの出来事の当事者だけではなく、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」生涯を幸せに生きたいと思うなら、命を与えてくださった神様に対して正しく生きなければなりません。しかし、わたしたちは誰も、神様に背を向けて自分の力で正しく生きることはできないのです。あなたもこの邪悪なこの時代から救われるべきです。聖書は神様から背を向けて生きることを罪といっています。この罪が、利己心として、自分中心主義として、人を傷つけ、自分も傷つきます。軽犯罪も殺人も、テロも戦争もその原点は聖書が指摘する私たちの罪にあるのです。邪悪な時代は罪が作っているのです。邪悪な時代から救われたければ、まず自分の罪を精算しなければなりません。どうかあなたも悔い改めてください。イエス・キリストの名によって洗礼を受ける決心をして、罪を赦していただきましょう。

C. 誕生したばかりの教会から学ぶこと (41-47)

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(41-47)

ここに目指すべき教会の姿があります。礼拝することを何よりも大切にしていました。言葉だけの表面的なものではない、互いの必要を満たしあう交わりがありました。そして愛をもって人びとに仕えていたので、民衆全体から好意を寄せられていました。なぜそのようなことがエルサレムの教会に可能だったのでしょうか?それは聖霊が豊かに注がれたからです。聖霊に満たされることを求めずに、私たちは、そのような理想に近づくことはできません。私たち全体の上に、一人ひとりの心の中に聖霊が豊かに注がれるよう祈り求めてゆきましょう。

メッセージのポイント
教会は圧倒的な聖霊の注ぎによって誕生しました。聖霊の力に頼らない教会、人生には力がありません。聖霊に自由に働いていただかなければ、礼拝もメッセージも祈りも交わりも働きも虚しいのです。この聖霊の注ぎによって誕生したエルサレムの教会に、理想的な教会のあり方を見ることができます。聖霊の力強い注ぎをいつも求めて、このような教会をいくつも建て上げてゆきましょう。

話し合いのヒント
1) この日起こったことはどのようなことでしたか?
2) 最初の教会の特色は?