May 29th - June 4th 2010 Vol.17 No.22

福音の真理に従ってまっすぐ歩くために  ガラテヤの信徒への手紙2:11-14

 聖書の教えに従ってまっすぐに歩くことは、キリストの体である教会全体にとっても、その一部分である私たちにとっても大切な事です。今日のテキストは、私たちが聖書の教える福音の真理を見失わないようにするために知るべきことを四つ教えてくれています。これらのことは、キリストの体である教会の健康を保つためにだけでなく、実は私たちのあらゆる人間関係を健康に保つことにおいても有効なことです。福音とは「良いニュース」という意味の言葉です。それは皆さんが喜んで生き生きと祝福された生涯を歩むことができる、という良いニュースです。そして、その真理とは「イエス・キリストを自分の神、主と信じて生きる」ことです。この単純な信仰だけが豊かな人生の条件です。伝統的な規則を守ることが条件ではありません。

1) 相手が誰であっても言うべきことは言う (11)

さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。

ケファ、すなわちペトロはイエス様の第一の弟子です。イエス様はペトロに向かってあなたの上に教会を建てるとさえ言われたのです。実際、主の兄弟ヤコブとともにエルサレム教会中心的指導者となっていました。権威者に対して、意見することは、人間の組織では難しいことです。パウロは何でも反対してみるというような人ではありません。しかし、福音の真理については相手が誰であっても、決して妥協することはありません。このことは世の組織でも大切な事です。経営者が聞く耳を持たなかったために失敗するケースはいくらでも有ります。家庭でも同じです。神様は小さな子供をとおして真理を教えてくれることもあるのです。ですから、リーダーに言わなければならないと思うことが言えない組織、聞く耳を持たない人がリーダーである組織は健康とはいえません。よく聞くことは言いなりになることではありません。それではリーダーとは言えません。親子関係で見るなら、子供から聞こうとしない親、言いなりになってしまう親は両極端です。

 

2) 指導者であっても間違えることがあることを知る (12)

なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。

ペトロは不思議な体験をして神様が異邦人を分け隔てしないことを知らされましたが、ヤコブにはそのような実感が伴わなかったのでしょう。ヤコブの周りにいた人びとは、クリスチャンになるために異邦人は割礼を受けなければならないと信じ、教えてもいたのです。問題はペトロです。そのような人々を恐れて、神様に教えられてわかったはずなのに、再び異邦人とは食事をしないという態度をとったのです。それは、信仰によってのみ救われるという福音に対する裏切り行為でした。福音書を読むとペトロがたくさんの失敗を繰り返しながら、それでもイエス様を愛してついてゆく姿を見ることができます。教会でもそれ以外の組織でも、失敗しないリーダーはいません。失敗することを認め、赦さなければ組織は成り立ちません。大切なことは誠意を持って伝え方向転換してもらうことです。もしあなたが、親であるとか管理職、あるいは教師といったその組織の責任者であるなら、自分は常に間違う可能性を持っていることを忘れてはいけません。そのためにはどんな情報でも入ってきやすいように、どんなことでも聞くという態度を持つことが大切です。それが教会のリーダーであるなら、静かな神様との時をもって、まずオーナーである神様の声を聞くために祈るべきです。しかし、神様はあなたの心の直接語るとは限りません。だからみんなの声を注意深く聞くのです。

 

3) 間違いは大きく広がることもあることを知る (13)

そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。

リーダーの誤りは、彼/彼女を信頼しているサブリーダーにも広がります。同じ目的に向かって働いているだけに、気付きにくいし、気付いても指摘しにくいのです。リーダーに意見することが許されない組織ならもう暴走するしかありません。教会はキリストの体ですが、人間の組織でもあるのです。問題が起こります。失敗します。人を悲しませ、がっかりさせるなら、私たちだけでなく神様に対する失望を与えてしまうことになってしまいます。バルナバはパウロにとって信頼できる友人だったのです。しかしその信頼していた友人までもが悪い影響を受けて引きずり込まれてしまいました。私たちは、正しい判断力を失って間違った側を支持してしまう可能性を持っています。あるいは自分以外がみな、間違った考えに引きずり込まれてゆく可能性もあるのです。どうしたら正しい判断ができるでしょう。正しい行動ができるでしょう。それはあなたがイエス様にしっかりと結ばれているかどうかによるのです。

 

4) 自分と人を測るのに別のスケールを用いるという私たちの傾向を知る (14)

しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

ユダヤ教では、律法を正しく守ることによって神様とつながっていることを目指しました。十戒を見ればわかるように、それは人間が神様と隣人との愛に基づく平和な関係を保つために重要な戒めだったのです。けれども律法は長い歴史の中で、人びとの日常生活を窮屈にする、事細かな規定として理解されるようになってしまいました。ペトロは、そのことが本質ではないことを知りながら、人を恐れて、自分でも信じていない事をしました。異邦人と食事を共にすることを避けるようになったのです。それは、異邦人と食事を共にすれば自分が穢れるという、神様の愛とはかけ離れた律法的な考え方です。異邦人がクリスチャンになるためにはユダヤ的な習慣を守らなければいけないという考えです。パウロは黙っていられなかったのです ペトロは、イエス様の十字架の救いによって、自分が律法に縛られていないことを知りながら、異邦人クリスチャンを律法で縛ろうとしたのです。 私たちの自己中心的な性質は、自分に甘く、他人に厳しくという態度に現れます。自分に当てはめる基準とは別の基準で人を測ってしまいます。それは、人を愛することではなく、裁くことです。受け入れることではなく、排除することです。

 

メッセージのポイント
ユダヤ教の背景の中で誕生したキリストの教会が、イエス様の命令に従って世界中にその福音を届けられるようになるためには、ユダヤ人だった初代教会の人々は、神様の意思を正しく受け取り福音の真理とそれを取り巻く文化習慣を区別して、福音の真理だけを正しく伝えなければなりませんでした。これは私たちがイエス様を誰かに伝える時にも気をつけなければならないことです。クリスチャンのライフスタイルといっても、国が違えば、地方が違えば、年代が違えば異なって当然なのです。ところが私たちは、福音を信じている自分たちの文化習慣が福音の一部であるかのように錯覚して、伝える人に守らせたいと思ってしまう傾向があるのです。これを克服できない教会は同質、同年代の人だけしか集うことができません。新しい人々を招き入れることができるのは、すでにそこにいる人が自分たちに心地よいところとして守ろうとする「Our church」ではなく、神様と神様が招いている人々に「これは、あなたのための教会です」と自分の居心地を喜んで犠牲に出来る人々の「Your church」です。私たちはその名前とは反対の教会にならないようにイエス様に誠実に従ってゆきましょう。

話し合いのヒント
1) なぜペトロやバルナバは見せかけの行いに引きずり込まれてしまったのでしょう?
2) パウロに非難されたペトロのように自分と人を測るのに別のスケールを用いてしまった経験を話して下さい?