June 5th - 12th 2010 Vol.17 No.23

キリストはあなたの内に生きている  ガラテヤの信徒への手紙2:15-21

 あなたは「どのように生きたいですか?」という問にどう答えますか?多くの人が自分らしく生きたい、と答えます。では自分らしくとはどのようなことなのでしょう。自分の思い通りに生きたい、と答える人も多いです。では、あなたの思いとはどのようなものなのでしょうか? それは、その時その時の自分の欲望に従ってゆきたいということですか? それとも……。問題は「どのように生きたいですか?」という質問に対するあなたの答えが、あなたを幸せにしてくれるかどうかです。聖書が提案する答えは「神様の基準で正しく生きる」です。自分の基準でもなければ、誰かの基準でもありません。あなたを創られ、あなたの幸せを願い、あなたを見守っている神様の基準です。この聖書の答えが正しいかどうかを検討し、どうしたら神様の基準で正しく生きられるのかを考えてみましょう。

A 神様の前に正しいとは?(15-18)

1) 律法の実行によっては誰一人、義とされない (15,16)

わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

パウロは自分を誇って、異邦人のような罪人ではないと言っている訳ではありません。一般のユダヤ人はそう考えていたということです。パウロはイエスキリストに出会ってそれが間違えであると知りました。イエス・キリストを信じる信仰だけが、人を神様の前に正しい者とさせる事を知りました。もうユダヤ人が正しく、異邦人が罪人という考えは成り立ちません。聖書のいう罪は、神様に背を向けている状態のことを指します。ユダヤ人は、他の民族がユダヤの律法を知らないので彼らを罪人とみなしました。しかし、イエス様が来られて、誰でも律法の実行とは関係なしに、イエス様を信じ、彼に従うことによって神さまの前に正しく歩むことができるようになったのです。律法を実行することも、最初は神様の意思に従うことを意味していました。しかし律法はやがて、祭儀から日常生活にまで及ぶ行動規定に発展し、神様の憐れみ深い意思とはかけ離れたものになってゆきました。守ることは容易ではなく、しかも守れたところで、神様の意思とは全くかけ離れています。律法の実行は、もはや神様が正しいと認めては下さらない行いとなっていたのです。ユダヤ人ではない私たちにとっても、律法主義の問題は他人事ではありません。ユアチャーチカヴェナントはメンバーの誓いですが、律法ではありません。例えばカヴェナントメンバーは十分の一の献金を誠実に献げることを誓っていますが、それをするから神さまの前に正しいと認められているのではありません。礼拝する、互いに愛し合う、世界に仕えるという誓いも同様です。それをして神様に正しいと認められたいからではなく、正しいと認められた者として、喜んでそのようにしたいと願って誓ったのです。

 

2) ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(17,18)

もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。

パウロは、間違って使われてきた罪という言葉が、イエス様の十字架によって、本来の意味を取り戻した、ということを伝えたくてこのように言っています。形式的な律法を守らなければ、イエス様を信じても、まだ罪人だと主張するなら、イエス様を罪人だということになりますよ、と警告しています。教会の中に律法主義を持ち込むなら、それは自分がおかしいと気づいて捨て去ったものを、人に守れという事になってしまいます。私たちがもはや罪人ではないのは、何かをするからでも、何かをしないからでもありません。ただイエス様を自分の主、神様として信じ、生涯従ってゆきたいという意思だけが神様の前に正しいものと認められるたった一つの条件なのです。

 

B 私たちは神様に対して生きている(19-21)

1) 死んだ私、生かされている私 (19,20)

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

イエス様は、ユダヤの律法に反する者として十字架につけられました。そして、苦しみ死なれたのです。律法の実行によって正しいと認められる者は一人もいません。律法の実行が正しさを保証するのなら誰一人、罪のない者はいないのです。律法の実行を私たちのコンテキストで言い直すなら「自分の力で正しく生きる」ということです。神様に従わず、自分で生きようとする者は幸せにはなれません。パウロは、自分もイエス様のように律法に対して律法によって死んだと言っています。それは、パウロが神様に対して生きるためです。イエス様ご自身は、神さまの前に何一つ罪を犯されませんでした。神の御子として、神様の意思を100%行った方が、本来、十字架にかけられておかしくない、全ての人の身代わりとして苦しまれたのです。クリスチャンは皆、神様に対して生きるために、自分の力で正しく生きようとする人生を捨てた者です。古い私たちは、あの十字架の上で死んだのです。新しくされた私たちは、あの十字架の苦しみと死の後、よみがえられたイエス様が私たちのうちに生きておられます。私たちの限りあるこの世での新しい命も、約束されている魂の永遠の命も、イエス様の十字架なしにはありえません。私たちは生きているのではなく、神様の恵みによって生かされている者なのです。

 

2) 神様の恵みを無にしてはいけない (21)

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

だから、この神様の恵みを無駄にしないで下さい。イエス様の十字架は、私たちがすでに赦され、神様の子供とされていることを裏付ける事実です。差し出されている恵みをしっかり受け取り、握り締め、離さないで下さい。自分の人生なのだから自分の思い通りに生きるのが幸せ、という蜃気楼にだまされないで下さい、その方向にいくら進んでもオアシスはありません。砂漠が続くだけです。また、反対に、自分はどうせダメだと人生を投げないで下さい。神様はあなたが何かができるから愛してくださるのではありません。何の条件もなしに愛しておられるのです。それが本当の愛です。それを素直に受け取ることが、神さまの前に正しいことなのです。そしてそれは、あなたとって最も幸せな人生を意味するものです。

 

メッセージのポイント
正しい行いが、人を正しくするのではなく、正しい人とされた者が正しく生きることができるのです。私たちを創られた神様だけが、私たちを正すことがおできになります。せっかくこのことに気付かされたのに、新しい律法を作り出したり、古い律法を引っ張り出してきたりして人を縛る「キリスト教律法主義」に陥らないようにしましょう。

話し合いのヒント
1) 義とされるとは、どういうことですか?
2) イエス様が天におられるということと、キリストがわたしの内に生きておられるということは矛盾しませんか?