June 12th - 19th 2010 Vol.17 No.24

信仰によって生きていますか?  ガラテヤの信徒への手紙3:1-14

A. ガラテヤ人の失敗とアブラハムの信仰

1) 霊によって始めたのに、肉によって仕上げてはいけない (1-5)

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。(1) あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。(2) あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。(3) あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。(4) あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。(5)

この文面を読むとガラテヤの人びとは、大変印象的な出来事を通してイエス様を主と信じたことが分かります。クリスチャンになることは簡単なことではないかもしれませんが、単純なことです。聖書の全体を理解して受け入れるというようなことではなく、ただ聖書に紹介されているイエス・キリストをあなたの神・救い主である信じることです。修行や善行が人を正しくするのではないことを先週学びました。人間的な努力が必ずしも実を結ぶわけではありません。だから、人はだれでも、より自由に、幸せに、豊かになりたいといつも飢えているような状態です。時には時間を忘れるほど楽しい時を過ごしていて、この飢えを忘れていることもあります。しかしふと我に返る時、満たされていないこと、飢えていることに気付くのです。満足は行いでは得られません。イエス様を信じるという事は、行動ではなく「この方を信じてついてゆこう」という決心です。決心とは自分で納得して理解するのではありません。それは一種の賭けともいえます。どのようにしてイエス・キリストという2000年前に生きた人を神様と信じることができるのでしょうか? それは、ちょうど裁判員のように証言によって信じるのです。聖書の言葉と、信じている人の証言です。けれども裁判と違うところは、あなたが裁判員という第三者ではなく、その結論によってあなたのこれからの生き方を決める当事者だという点です。それで、クリスチャンになるということは簡単ではないけれど「聞いて信じた」とあるように単純なのです。だから神様の霊の後押しなしには起こらないことなのです。ところが人間は物事を複雑にしてしまう傾向を持っています。十戒は単純です。「安息日を守りなさい」、それに応えてユアチャーチカヴェナントは「私は礼拝を生活の中で最優先にします」と誓います。このことを自分の良心に従って守れば良いのです。ところがそれでは納得できずに「具体的には一年に何回休んでもいいですか?」と聞く人がいます。そのように決まっていれば、いちいち自分の良心を探る必要がないので簡単ですが、もうそれは神様を愛する心とは関係ないものになってしまいます。そして、より分かりやすいようにと、事細かに細則を作れば単純ではなくなります。そしてやがて、それらを忠実に守ることがイエス様に従っていることだという錯覚に陥ります。肉で仕上げようとすることになるのです。

2) アブラハムの子となる (6-9, 創世記15:6,12:3)

それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。(6) だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(7) 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。(8) それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(9)

パウロはここで創世記15:6と12:3を引用しています。アブラハムは彼に語られた神様の、人間的に考えるなら途方もない計画を信じ従いました。あなたに祝福を与えるという神様の約束を信じて、住み慣れた土地を離れ旅立ったのです。もしあなたが、アブラハムと同じように聖書の神様に従ってゆこうと決心して歩みだすなら、祝福はあなたのものだというのが聖書の約束です。私たちもまたガラテヤ人と同じようにアブラハムの子孫ではありませんが、「信仰によって生きる」という同じライフスタイルを持つアブラハムの子といえるのです。アブラハムは有名ですが、信仰のスーパーヒーローと考えてはいけません。神様の言葉に従って出てゆきましたが、人間的な恐れから、妻サラを妹と偽ってみたり、老夫婦に子供が生まれるわけがないと疑ったり、神様を完全に信頼できていたわけではなかったのです。それは私たちにとって良い知らせです。怖くなって自分の方法に頼って失敗すること、常識にとらわれて神様の方法を受け入れられないことがあっても良いのです。アブラハムに語られた神様は、その約束がやがて異邦人にも及ぶと予告されました。今、それがイエス・キリストの「私に従ってきなさい」という招きにおいて実現しているのです。

B. 呪いから祝福に

1) 律法の呪い (10-12)

律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。(10) 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。(11) 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。(12)

律法を守ることの出来る人はひとりもいません。律法が人を裁くなら、すべての人は有罪で呪われているのです。イエス様は、古い律法から人々を解放し、律法なしに正しく生きられる道を用意してくださいました。それが信仰です。真の教えは行いを求めません。律法の呪いは、現代では良い法律、正しい経済政策、個人の努力によって幸せになるのだと信じ、イエス・キリストに従う必要はない、という考え方に引き継がれています。それが祝福ではなく呪いであることは、この世界と私たちの周りの人間関係を見れば明らかです。だからイエス様があなたにも必要なのです。

2) 呪いを引き受け、祝福をあたえる方 (13,14)

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。(13) それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。(14)

十字架は当時最も重い刑で、この刑で死ぬ人はだれよりも呪われた人であると考えられていました。けれどもイエス様はこの呪いの死からよみがえられました。その証言はいまでもされ続けています。私たちにとって呪いの印だった十字架は、祝福のしるしとなったのです。この国でも十字架のアクセサリーを多くの人が身につけていますが、本当の意味を知っている人は多くはありません。今日、あなたが十字架の意味を知ったのなら、イエス・キリストに従って生きることを考えて下さい。私は彼があなたを決して裏切らないと証言します。あなたがすでに主に従っているなら、祝福された人生を肉によって仕上げないで下さい。ただイエス様を信頼して、地上での終りの日まで、信仰によって歩み続けて下さい。

メッセージのポイント
ユアチャーチはイエス様を紹介し、彼とともに歩む人生の素晴らしさをできるだけ多くの人々と共有するために存在します。修行によって人格を磨くとか、御布施や功徳を積んで自分の願い事を叶えるような方法では、変わることのない平安や喜びを手に入れることはできません。イエス様を主と信じ、彼とともに歩むことが唯一の道です。律法主義の問題はイエス様や使徒たちの時代だけのものではありません。私たちの信仰の歩みも律法主義の危険にさらされています。

話し合いのために
1) 信仰によって生きるとはどのような生き方をいうのでしょうか?
2) なぜ律法の実行に頼る者は呪われているでしょうか?