June 19th - 25th 2010 Vol.17 No.25
神様の人類に対する約束 ガラテヤの信徒への手紙3:15-20(参照聖句:創世記12:1-3,15:6,17:4-6, マタイ5:17-20, ローマ13:8-10)
兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。(15-17)
日本国憲法98条には、憲法がこの国の最高の法であり、これに反する法律を作ってはいけないと書かれています。アブラハムに対する神様の約束は、430年後の出エジプトの出来事の後に与えられた律法に対して憲法のようなもので、より大切なものだとパウロは言っているのです。遺言と契約は原語では同じ言葉で、元々の意味は遺言です。死ぬことのない神さまの約束なのだから遺言というのはおかしく感じられるかもしれませんが、人間の遺言状以上に大切にするべき、神様からの恵みの相続の約束なのだということが良く分かります。旧約、新約の「約」も、遺言・契約・約束の意味です。私たちはアブラハムに約束された神様の契約の当事者、恵みの相続人なのです。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12:1-3) アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6) 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。(創世記17:4-6)
パウロは、ガラテヤの教会である人々によって教えられていた「異邦人クリスチャンはユダヤ人の律法に従わなければならない」という教えに大きな危機感をもって反対しています。その教えが、憲法を否定する法律のように、律法を最初の契約に違反しているものとしてしまうからです。世界中のすべての人が相続人の権利を持っています。権利は持っているだけでは、実際にその祝福にあずかることができません。祝福を得るのに必要なことは、アブラハムのように、ただ信じて従うことだけです。もうひとつここで注目しておきたいことは祝福を受けるということと、神様に義(正しい者)と認められることが切り離せないことだということです。神様の前に義と認められた者が祝福を受けるのです。
相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。(18,19)
パウロはここで、祝福の恵みの相続が約束に基づくものなら、律法には何の意味があるのかということに触れています。それは、1)イエス様がこられる時までの予備的なもので、2)違犯を明らかにするために、3)モーセの手によって制定されたものだというのです。律法は決して意味のないものではありませんでした。イエス様が律法についてどう言われたのかを紹介しましょう。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
イエス様は律法主義や律法学者を非難していますが、律法を無視するべきだとは言っていません。実は律法という言葉が指す意味は一様ではないのです。ここでイエス様がいわれる律法とは旧約聖書のモーセ5書の部分です。つまり、律法と預言者とは旧約聖書の全体です。イエス様は「私は旧約聖書を否定するのではなく、完成するために来た」おっしゃっています。ところが当時のユダヤ人にとっては、律法は旧約聖書に記されている言葉だけではありませんでした。長い歴史の中で生まれた細則や、日常生活にどう適用するかの解説が聖書自体の分量より多くあり、さらに書物には収められていない言い伝えさえも含まれていました。それらすべてを完全に守ることは誰にも不可能でした。しかもそれらは聖書に書かれている本来の神様の意思とはかけ離れてしまっていました。つまり、律法を基準にするなら、誰もが違犯者です。相続が律法に由来するものなら、誰も恵みの相続人の権利はないということです。律法は、神様の聖さと私たちの現実があまりにもかけ離れていて、私たちの人間的な努力では、神様に正しいものと認められることは不可能であるということを教えてくれます。だから私たちは希望をイエス様に託すしかありません。
仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。(20)
イスラエルの民にとって、モーセは彼らと神様をつなぐ仲介者でした。しかしイエス様が来て下さった今、私たちには仲介者は必要ありません。仲介者の手による律法も必要ないのです。イエス様は正しさが、細かい人間的な決まり守ることによってではなく、愛することによって認められることを、身を持って明らかにしてくださいました。神様ご自身が来られたのですから、人の仲介なしに従ってゆくことができるのです。イエス様に従うとはどのような事なのでしょうか?それは第一に、彼の言葉を信じることです。自分では正しく生きられない、従って祝福を受けられない私たちでしたが、イエス様が身代わりとなって、私たちのその罪を十字架で引き受けてくださったということを、です。そして、彼を自分の主としてついてゆくことです。それはイエス様の目に見える体である教会に連なって、責任を果たすということです。
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ローマ13:8-10)
この愛は第一に神様に、そして第二に隣人(社会)に向けられるものです。神様に対する愛は、私たちが何よりも礼拝することを大切にするという態度で現されます。社会に対しては、そこが神さまの正義にかなったものになるためのあらゆる働きが含まれます。その中心は福音を伝えることです。物質的、精神的な不公平を是正する努力は正義の一部ではあります。けれどもアブラハムに学んだように、信じて従うことなしには、義は得られず、従って祝福は得られないのです。パウロは「愛は悪を行わない」と言っています。愛こそが義の本質です。アブラハムがすべてを捨てて神様の導きに従ったということは、何よりも、誰よりも神様を愛したと言い換えられます。だから神様に義と認められました。この信仰なしには、どんなに環境が改善されても、心の中では悪いものを生産し続けることのなってしまいます。これを克服するには、もっとイエス様を信頼し、従おうとする以外に方法はありません。
メッセージのポイント
イエス様はアブラハムを通して人類に与えられた祝福の約束を完成するために来られました。律法はイエス様が来られるまでの不完全なガイドだったのです。イエス様が来られた今、私たちはただ、今まで背いていたことを悔い改め、イエス様を主と信じ、従ってゆく事だけが求められているのです。イエス様が来てくださったのですから、イエスさまのこられる前の律法に誰も縛られる必要はなくなったのです。それにも関わらず、ガラテヤの教会の時代から今にいたるまで、律法的なものが繰り返し教会の中に持ち込まれようとするのは、私たちの持つ罪の性質によるものです。これを克服するには、もっとイエス様を信頼し、従おうとする以外に方法はありません。
話し合いのヒント
1) アブラハムに与えたられたのはどのような契約でしたか?
2) それがあなたにどのような関係があるのですか?