July 3rd, - 9th, 2010 Vol.17 No.27
律法:キリストのもとへ導く養育係 ガラテヤの信徒への手紙 3:21-4:7
それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。(3:21-23)
なぜパウロは、律法ではなく信仰で救われるということをガラテヤの人々に徹底して伝え続けるのでしょうか?このことになぜ21世紀の日本にあるユアチャーチの私たちが何週間も付き合わなければならないのでしょうか?それは、このことが私たちにとっても、信仰の本質に関わる重要な問題だからです。だからこそ、この手紙が新約聖書にもおさめられているのです。 サッカーの日本代表が予想以上の成績を残せた理由の一つは、岡田監督が戦術を大きく変更したからです。岡田さんにはご自身の理想のサッカーがありました。しかし、それを今のティームで採用しても世界には通用しないという事実を、大会直前までのゲームで負け続けたことによって受け入れるしかありませんでした。理想のサッカーではなく、現時点で勝つための戦い方を選択したのです。ワールドカップ前の不振は、岡田さんがこのまま自分のやり方にこだわっていればワールドカップで勝つことはできない、ということを知るために意味があったのです。 神様は律法を、神様の正しさを、裏返せば人間の不義を徹底的に分からせるために与えたものでした。それを守ることによって義とされるためのものではなかったのです。このことを人々は理解せず、律法を守ることで義とされるという誤解に支配されていました。律法で知ることができるのは私たち人間の絶望的な罪深さです。もし神様が日本人を代表として律法を与えられていたとしても、イスラエルと同じことが起こっていたに違いありません。どの国でも同じことです。人は誰でも、皆が平和で楽しく生きるにはどうすればよいかは分かっているのです。だからそれを守るための約束事を作ることもできます。しかし、絶望的なことに、それをする力がないのです。 パウロはローマの信徒への手紙でこう言っています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(ローマの信徒への手紙7:15-18)
イエス様も、律法のもとでは誰もが罪人であることを免れることができないことを指摘されました。「あなた方の中で誰が姦淫の罪を犯した女に石を投げる資格があるのか、罪のない者にしかそれは許されない」と問われて誰も石を投げることができなかったことがヨハネによる福音書8章に記録されています。 この時代に生きる私たちは、イエス様が歴史に登場する以前と以後の違いを、自分がイエス様を知る前、知った後として考える事ができます。誰もが、より良く生きる、正しく生きる、自分らしく生きるということを考えているのです。大切なのは何を基準として正しいのか?です。ある人にとって、それは自分の欲望であり、ある人にとっては理想とする人の生き方かもしれません。しかし、その基準が適切でないなら、その基準に達しても、達しなくても満足することはできません。あなたの基準がどんなものであったとしても、イエス様に出会う前までは、それがあなたにとって律法だったのです。
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(3:24)
律法が与えられたのは、それによって義とされるためではなく、信仰以外には義とされる方法がないということをはっきりと知るためだったというのです。あなたが「人生に勝利したい。満足して人生を終えたい」と願うならば、岡田さん以上に大胆に戦術を変更しなければなりません。自分の理想に従って戦うのではなく、勝つために戦うという変更です。どうしたら勝つことができるのでしょうか?それは、本当に勝つ事のできる監督を迎えることです。あなたが、あなたの人生というゲームの監督だったとしたら、最初にすることはあなた自身をクビにすることです。イエス様に監督になっていただきあなたは彼のプレーヤーになりきることです。サッカーは監督を変えても簡単には勝てませんが、人生は正しい監督をもつことなしに勝利することはできません。信仰によって義とされるとは、あなたの監督、神様を信頼して人生に勝利するということです。このたった一つだけの勝利への道が明らかにされるために、それ以外のすべての道が行き止まりであることを知らせるために、律法は存在したのです。
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。(3:25)
つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。(4:1-4)
イエス様が来られて、律法の役割は終りました。律法は神様の正しさと、私たちの不完全さのコントラストを鮮明に教えてはくれましたが、ではどうしたら幸せに生きられるのかという答えはそこにはありませんでした。答えはイエス様にあります。神様ご自身が、その律法のもとに一人の人として歩み、律法の呪いを十字架にかかることで無効にし、復活されて信じるすべての人に死からの解放をもたらしました。 私たちは幼すぎて、養育係の存在にさえ気づかずに歩いてきたのかもしれません。自分に都合のいい価値観をその時々に採用してなんとかここまで来たのです。けれどもいま聖書の言葉を通して、あなたの心に届いているのは、その価値観、その基準で生きてゆくことは虚しい、という警告です。規則という養育係に従順に生きてきたにしても、反抗的に、あるいはそれを無視して生きてきたとしても同じことです。しかし今、その生き方をはっきりと変える機会が目の前に置かれているのです。イエスキリストが2000年前にこられて以来、それはすべての人に提供されてきました。けれども私たちの周りには、この機会に気づいていない人も多いのです。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(3:26-29)
それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(4:5-7)
創世記に、アダムとエヴァが神様との約束を破り、楽園を追放されたことが記されています。これが私たちの罪の原型、原罪です。サッカーでいうなら、信頼できる自分の監督をクビにして自分が監督に就任したようなものです。エヴァは蛇にそそのかされてそうしたと描かれていますが、つまりは悪魔にそそのかされて自分が監督になったつもりで歩み始めたわけで、4:3でパウロが言っているようにその実態は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていたということなのです。イエス様が来られるまで、神さまの前に正しい人が一人もいなかったわけではありません。アブラハムはその代表的な一人です。信仰によって義と認められ、祝福の約束をいただきました。神様は彼をその信仰によって祝福の相続人としましたが、今、私たちはアブラハムの信仰の子孫として、イエス・キリストを自分の主、人生のヘッドコーチとしてお迎えすることができるのです。神様は歴史の初めから、あなたの監督だったのです。しかし私たちは監督に背を向け、自分勝手にゲームを続けてきました。もしあなたが、自分であれ、誰であれ神様以外の監督のもとに人生を戦っているなら、イエス・キリストを主と認め、勝つ戦いを始めてください。あなたが、イエス様を主と信じていても、イエス様を信頼せずに彼に耳を傾けないなら、敵に得点を与える事のなってしまいます。神様の言葉に最大の注意を払って、人生という大切な一度きりのゲームを楽しみ、勝利してください。
メッセージのポイント
イエス様がこの世界にきて下さる前の旧約聖書の時代では、モーセを通して与えられた律法によってしか神さまの意思に従う事は出来ませんでした。しかしそれが完全に出来る人は一人もいませんでした。私たちもまた、イエス様を知る前には、自分にとっての旧約の時代を生きていたといえます。常識や法律、慣習、家庭での約束事。それらに対してどのような態度をとるかは人によりますが、基準がこれらの事であったことには変わりありません。しかしイエス様が来られることによって、その基準自体に問題があることが分かりました。私たちは何よりも、主イエスを信じる信仰こそが神様に対して正しい態度であることを教えられたのです。私たちに問われているのはその行い以前に、神様に対する心のありかたなのです。行いはなくてもいいと言われているわけではありません。行いは信仰によって表れるものなのです。
話し合いのヒント
1) 現代のクリスチャンであるあなたにとって、律法はどのような意味がありますか?
2) 私たちはもはや何の奴隷ではなく、誰の子なのですか?