July 10th, - 16th, 2010 Vol.17 No.28

真理をつかんで離さない ガラテヤの信徒への手紙 4:8-20

1) 偶像礼拝と律法主義の根は同じ (8-12)

ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。(8) しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(9) あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。(10) あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。(11)  わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。(12)

興味深いのは、ガラテヤの人々が彼らにとっては新しいものである律法を取り入れようとするなら、イエス様を知らなかった時に後戻りする事になる、とパウロが言っていることです。律法の民ユダヤ人はガラテヤ人のような異邦人を、真の神を知らず偶像を拝む者として軽蔑していました。パウロも元々その考えに立つユダヤ人です。しかし、パウロは偶像礼拝を軽蔑するユダヤ人の律法に対する態度も実は偶像礼拝と変わらないものだということをイエス様との出会いで知ったのです。偶像礼拝とは、それが何であれ、神様ではないものに心を奪われて神様から背を向ける態度です。その意味では律法もまた、ただイエス様を信じるといいう信仰を受け入れることのできない人にとっても偶像の一つなのだということです。

 

2) 初めの愛を思い出そう (13-16)

知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。(13) そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。(14) あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。(15) すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。(16)

パウロがガラテヤの人びとにイエス様を伝えたのは、彼の最初からの計画ではありませんでした。この事の次第は使徒言行録16:6に触れられています。彼が重い病気のために計画通りの旅行を諦めたので、ガラテヤに早く福音が伝わりました。パウロではなく、神様の計画だったのです。はっきりした病名を特定する事はできませんが、この病は悪霊の働きによるものと考えられていて、人々がパウロを軽蔑し、忌み嫌ってもおかしくはないものだったのです。それにもかかわらずパウロ自身がイエス様であるかのように受け入れられたのは、主が共におられたこと、パウロの熱心が下心のないものであることが明らかだったからです。ガラテヤの人々がイエス様に、そしてパウロに表した、その初めの愛が、今回こんな形で覆されていることがパウロには大変なショックだったのです。あなたは初めの愛から離れていませんか?時々自分の心に問いかけてみましょう。

 

3) 真理からあなたを引き離す敵 (17)

あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。(17)

信仰に律法の行いを混入したものをガラテヤの人びとに吹き込んでいた者たちを、同じ律法的な背景を持っていたパウロは理解できませんでした。イエス様を信じる信仰と律法とは決して共存できないものだということを、自分の人生の180度の転換を通して知っていたからです。彼らのうちには真理はない。ガラテヤの人々の魂が彼らに奪われるとすれば、彼らを真理から引き離すことになってしまいます。このようなものはどの時代にも存在します。誰かのあなたに対する熱心が、神様からのものかどうかを注意深く見極めなければなりません。

 

4) 熱心自体が悪いのではない (18)

わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。(18)

熱心さという点では、間違った教えをする者もパウロも変りはありませんでした。彼らの問題は「熱心」ではありません。信仰の確かさは、目に見える熱心で測れるものではありません。けれども聖書は、イエス様に対して、神様に対して、教会に対して熱心であることを勧めています。問題はその熱心の動機なのです。熱心は時に、自分の願いを叶えるための道具となります。何か満たされないことの代用品として使われることもあります。私は皆さんが神様に熱心に仕えていただきたいと願いますが、ですから私たちは熱心についても時々、立ち止まって「私のこの熱心は、本当にただ主を慕ってのものなのか?」思い返して見る必要があります。そして、熱心の後ろに隠れている利己的な思いがあったなら、それは主の前に持ち出して、悔い改めて、取り去っていただかなければなりません。ただイエス様に熱心な者となりましょう。

 

5) 真理にとどまり続けるには (19,20)

わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(19) できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。(20)

パウロは産みの苦しみに例えて、ガラテヤの人びとがイエス様を信じるまでの彼の苦しみを表現しています。もう彼らは神様を信じる者になったはずなのに、また同様の苦しみの中にあると言っているのです。イエス様を信じる決心をすることは、生涯信仰を持ち続けることに比べれば簡単なことです。教会の目的は、決心させることではないのです。教会には、その後の魂のケアもゆだねられています。イエスを主と信じた人が天国に帰る日まで、イエス様に従って歩み続けることをサポートすることが教会の主要な働きです。多くの人が、イエス様を信じる決心をし、一度悔い改めバプテスマを受けたら、もうそれで満足してしまうのです。教会を、つまりキリストの体を離れ、もういちど迷える子羊に逆戻りしてしまうのです。しかも、この子羊は自分が迷子だということに気づいていない、さらに厄介な存在です。それどころかガラテヤの教会は、教会ごとまとめて迷子になってしまうような危機を迎えています。私たちにも起こりうることです。真理にとどまり続けることは簡単ではありません。何かを容易に偶像視してしまうこと、信仰を規則やしきたりにすり替えてしまうことは私たちの持つ生来の性質だからです。サタンはそれに付け込んで、神様から私たちを引き離そうと、あらゆる手段を用いて誘惑します。私たちが真理にとどまり続けるために、イエスキリストとともに歩むことに熱心であること、互いのうちにキリストが形づくられるように、育て、励まし、慰め、ときには戒め合うことが求められています。

 

メッセージのポイント
ガラテヤの教会は異邦人の教会という点で、私たちの教会の参考になります。私たちも皆、律法を与えられた民ではなく、神様を知らず、元々神様ではない神々に仕えてきた者です。イエス様を知った今、再び元の状態に戻ることはなくても、律法的な信仰になってしまう危険はあるのです。そしてそれは、本質的にはイエス様に出会うまでの状態に戻ってしまうのと同じです。真理にとどまり続けることは簡単ではありません。何かを容易に偶像視してしまうことも、信仰を規則やしきたりにすり替えてしまうことも私たちの持つ生来の性質だからです。また、それに付け込んで神様から私たちを引き離そうとするサタンは、あらゆる手段を用いて目的を達成しようとしているからです。そこで私たちは、イエスキリストに従って歩むことに熱心であること、互いのうちにキリストが形づくられるように、育て、励まし、慰め、ときには戒め合うことが求められているのです。

話し合いのヒント
1) 神様を知った異邦人がユダヤの律法を守ろうとすることがなぜ諸霊の下に逆戻りすることになるのですか?
2) どうしたら真理にとどまり続けることができますか?