July 17th, - 23rd, 2010 Vol.17 No.29
奴隷と自由人 ガラテヤ 4:21-5:1、創世記16,17,21 ヨハネによる福音書8:31-36
わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。(イザヤ54:1)」(21-27)
私たちが聖書を読むとき、当時の読み手にとって一番分かりやすい喩えが、私たちにとっては理解の妨げになる場合があります。パウロはここで、クリスチャンもユダヤ教の律法の規定を行うことが必要だという考えを持つことは、結局イエス様が来られる以前と同じように、魂を奴隷状態に置くことだ。あなた方はイエスキリストによって自由にされたのだから、再び囚われてはいけないということを伝えようとしています。
元々は奴隷に過ぎなかったハガルは、サラの“勧め”(創世記16章)によってアブラハムの子イシュマエルを産みました。アブラハムは子として彼を愛しましたが、母が奴隷なので彼の身分も奴隷です。パウロはハガルを、イスラエルの民に律法が与えられたシナイ山、さらに律法のシンボル的な町エルサレムと重ねて説明しています。ガラテヤの人々に律法的な生き方を命じる人々はエルサレムから来た人たちだったからです。律法の下にいたいと思うのはハガルの子イシュマエルのように奴隷として生きるようなものだと言っているのです。しかし私たちを奴隷とするのは律法だけではありません。先週、偶像礼拝とは何かというお話をしましたが、偶像を礼拝するとは、その偶像的存在の奴隷となっているということです。私はこのことから自由ではない。それが奴隷であるあなたの主人です。欲望の奴隷、心配の奴隷、感情の奴隷。これらにコントロールされていることを聖書では「罪」というのです。なぜならこれらが邪魔をして神様を素直に見上げることができないからです。そしてこのコントロールの背後に目立たないように潜んでいるのがサタンです。彼の願いは単純です。あなたが神様を見上げて自由になってほしくない。本当に変わらない幸せを見つけてほしくない。手に入れた自由を、幸せを棄てて欲しいのです。自分は神様からも自由だと思っている人が多くいます。私もかつてそう思っていましたが、それは錯覚でした。人には神の子として生きるのか、罪の奴隷として生きるのか、それ以外の生き方はありません。
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 (ヨハネによる福音書8:31-36)
国会図書館のホールには設立理念として「真理がわれらを自由にする」と刻まれています。このイエス様の言葉のひどい引用です。真理であるイエス様があなたたちを自由にする、というはっきりとした神様からの言葉を、抽象的な人間の言葉にすり替えてしまっています。真理は抽象的な概念ではありません。長く律法の下にいたユダヤ人にとっては、本当の自由がどのようなものかわかりにくかったようです。ガラテヤに来た人々だけでなく、地上のイエス様と共に歩んだ弟子たちも同じだったことがこの部分から分かります。自由はイエス様を主と信じて従うことによってあなたのものになり、従い続けることによって奴隷の状態に戻らずに済むのです。
ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
私たちは、今でも混乱の中にある、地上のエルサレムに属しているわけではありません。天のエルサレムに属しています。(25,26) 罪の奴隷ではなく、自由な者として生きています。なぜそのような身分が与えられているのでしょうか?あなたが良い行いをしたからでしょうか?罪人といっても少しましな方だったからでしょうか?そうではありません。それは私たちが、約束の子であり、霊によって生まれた者だからです。私たちが自由でいられるたったひとつの根拠は、旧新約聖書を貫いて表わされる神様の約束だけです。この約束を信じて、生まれ変わることが、“霊”によって生まれることなのです。ここにいるクリスチャンは、皆「霊によって生まれた約束の子供たち」です。もしあなたがそうでないなら、どうか、イエスキリストの招きに応じて、罪の奴隷であることをやめ、自由を獲得してください。
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
奴隷となっている者からの迫害(29)とは、ガラテヤの人々にとってはエルサレムから来た教師たちの律法の強要のことです。それは私たちの身にも形を変えて起こることです。神さまの前に正しくあるということの根拠は「行い」ではありません。それを忘れるとき、行動の規範が律法となり、私たちを奴隷としてしまいます。私たちがこの自由を軽んじないために心に留めるべきことは、そのために神様ご自身が大きな犠牲を払われたということです。イエス様の十字架の苦しみによって得られた高価な自由です。このことを思い起こすために、私たちは毎月、聖餐にあずかるのです。また教会は改革され続けなければならない。油断していれば福音の上に新たな律法を積み上げることになってしまうことも。教会の歴史を見れば明らかなことです。だからユアチャーチはどんなことよりも礼拝 (Worship) を最優先にするのです。
メッセージのポイント
私たちは表面的には自由な人間で誰の奴隷でもありませんが、悪いこととはわかっていてもやめられないことがあるなら、あなたはそのことの奴隷といえます。タバコの奴隷、テレビゲームの奴隷、物欲の奴隷といった具合です。特に律法に代表される行いによる人間評価の基準は、一見正しいことのように見えるので、私たちを巧妙に奴隷にします。イエス様は私たちをあらゆる囚われから解放するために来てくださいました。完全な自由は、ただキリストを知ることによって獲得できます。
話し合いのために
1) あなたは自分が誰かの、何かの奴隷のようだと感じたことがありますか?
2) あなたはどのような意味で自由なのですか?