July 24th, - 30th, 2010 Vol.17 No.30

互いに愛し合いなさい ヨハネによる福音書15章12-17

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(12) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(13) わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(14) もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(15) あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(16) 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(17)

1) 神様を愛すること、互いに愛し合うこと、世界を愛することは三位一体

今日は「互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉に注意深く耳を傾けたいと思います。「愛し合う」ことと「愛する」ことはどう違いますか?愛することは一方通行です。愛し合うことは、愛することと、愛されることが同時に起こっている状態です。この言葉について、旧約聖書と新約聖書を比べてみると興味深いことが分かります。旧約聖書には「愛しなさい」という言葉がいくつか出てきますが、愛し合いなさいという言葉は新約聖書にしか記録されていません。イエス様が、旧約聖書の引用以外で「愛しなさい」と一方通行の言い方をなさっているのはたった一箇所、「敵を愛しなさい」(ルカ6:35) だけです。聖書に書かれているイエス様の命令とは何ですかたずねると多くの人がマタイ28章、マルコ16章の宣教の命令を思い起こすでしょう。しかし、イエス様ご自身で「これがわたしの命令/掟です」と言われるのは「互いに愛し合う」ことです。「互いに愛し合う」ことの中には、神様を愛すること、世界(人々)を愛することが含まれています。お一人の神様が父、子、聖霊という三つのあり方でご自身を表わされたように、愛も三つの在り方があるのです。イエス様が十字架の愛を最初に表わされたので私たちは、愛を知り、愛に応えたのです。しかし私たちの愛は神様だけに向けられるならば、それは神様の愛とは異なるものです。だからイエス様は「互いに愛し合いなさい」「全世界に福音を宣べ伝えなさい」ともおっしゃいます。私たちは、神様に愛されることによって愛することを知ったのです。その愛は神様に、互いに、世界に向けられます。この三つの愛の向けられる方向のどれかが欠けているとすればそれは本当の「愛」ではありません。

 

2) 互いに愛し合うことが礼拝と世界をつなぐ

イエス様は「私があなたがたを愛したように」という言葉からこの命令を始めています。イエス様は最初にアクションを起こして下さいました。だから私たちも愛し合いなさいとイエスさまは勧められます。そして16節では、私たちがこの愛を世界中に広めるために任命されていることが分かります。ヨハネによる福音書には、マタイ、マルコにあるような具体的な宣教命令は記されていませんが、この部分は私たちがこの命令を受けて出てゆく者であることを明らかにしています。しかし、イエス様はそう言われたすぐ後に、もう一度、「互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。」と繰り返されました。なぜイエス様は、神様を愛すること、世界を愛すること以上に互いに愛し合うことを強調されたのでしょう?それは仕えたいと願う真剣な教会にとって一番おろそかになりがちな部分だからです。礼拝を捧げるための労力、世界に仕えるための時間や労力を惜しまないことが、交わりのための時間と労力を惜しむ結果となりやすいのです。ユアチャーチのYOUはあなたにとって誰ですか?神様であり、まだイエス様を知らない人々であることと同様に、ここにいる一人一人であることを忘れないようにしましょう。この「三位一体の愛」は三階建ての家に例えることができます。 この家を建てるとき大工さんはどこから仕事始めるでしょうか?順番は一階→二階→三階、これ以外の建て方の順番はありえません。遠くから見てよくわかるのは三階の様子です。その教会が社会にどう働きかけているのかという部分です。だから私たちに委ねられているのはどのようなミニストリーなのか注意深く見極め、大胆に取り組みます。近づいてみてよくわかるのは入り口のある一階です。自分たちばかりでなく、訪ねてきてくださるクリスチャンではない方々のためにも、私たちは礼拝が神様の意思に適うものであるように、よく気をつけて準備し、真剣に捧げ、またより良いものとなるように祈り求めています。それらの中間で一番目立たない、なおざりになりやすいのが、互いに愛し合う場である二階、交わりの部分です。しかし一階の上に二階がなければ三階はありえません。神様と共に過ごす礼拝と人々のために働く世界を結ぶのが、キリストの体である私たちが互いに愛し合うこと、交わりなのです。

 

3) 交わりの形

マザーテレサは、愛することの反対は憎むことではなく、無関心でいることだといったそうです。確かに、クリスチャンが互いに無関心で自分勝手に生きているなら、たとえ憎み合っていなくても、誰もクリスチャンにはなりたくないでしょう。  関心を持つには相手と親しくなることです。親しくなる場を教会は提供します。それがミニチャーチやピクニックです。しかしわたしは、年に数回のピクニックで交わりが保てる、互いに愛し合う関係が出来ているとは思えません。互いに愛し合うことを、交わりを保つと言ってもよいでしょう。どのような交わりがユアチャーチにふさわしいのか?私は教会を始めてから今まで、ずっと考え続けています。いまのところミニチャーチ以上のものを考えつきません。しかし、うまく機能しているとも思えないのです。もちろん、交わりは時を共に過ごす時を持つことだけを意味しているわけではありません。そうでなければ、交わりが成り立たないわけではありません。互いを目の前に置かなくても、地球の反対側にいても交わりは可能です。交わりは愛の三位一体の一つの現われですから、愛し合う、助けあう、励ましあう、慰めあうということが実現するなら、形は問題ではないのです。しかし、どんなにコミュニュケーションの手段が進んでも、まだ、実際に同じ空間で共にときを過ごすことからはじめなければ私たちは互いに関心を持ち合うことが難しいのではないでしょうか?ですからどうか、みんなで考えやってみて私たちらしい「互いに愛し合う」ことのベースとなる交わりの形を発見しましょう。私たちはよく時間がないことを言い訳にしますが、時間は見つけるものではなく作るものです。それは何かのための時間を互いに愛し合うための時間に置き換えることです。それが私たちの払うべき犠牲です。神様に対しても、人に対しても犠牲を払わずに愛しているとはいえません。そして互いにそうするのでなければ、私たちのうちに神様の愛はないことになってしまいます。(1ヨハ 4:12) 一階でイエス様に頂いた愛にふさわしい実を三階で結ぶことができるように、二階でするべきことに忠実な者となりましょう。

メッセージのポイント
キリストの体の一部である私たちにとって、自分を愛するということは、自分自身のことだけではなく自分の属する体を、つまり教会の人々を愛することでもあります。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というイエス様の言葉の「自分自身」とはユアチャーチのことでもあるのです。ここにいる神様の家族を愛せないなら、世界を愛することはできません。イエス様は深い憐れみをもって私たちを愛してくださっていますが、人としての歩みの中で父としての神様を誰よりも深く愛され、私たちにもそうすることを勧められました。神様が三位一体であるように愛するということの中には、神様を、世界を(人々を)、そして互いに愛し合うという三つの側面があるのです。

話し合いのヒント
1) 教会は何のために存在しますか?
2) 交わりとは何ですか?