August 8th, 2010 Vol.17 No.32

霊の導きに従って歩みなさい ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

A. 人生には二つの歩み方がある (16-18)

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。(16-18)

私たちが使っている日本語の聖書は今のところ一番新しく分かりやすいのですが、今日のテキストの「霊」という語は、少し誤解を与えやすい訳です。以前の口語訳や多くの英語訳では御霊、あるいは聖霊、Sが大文字のSpiritとなっています。あなたの、誰かの、何かの霊ではなく神様の霊、聖霊の意味なのです。ですからこの部分は、霊とは何か、肉とは何か?といったような哲学的な議論でもなければ、霊の世界と肉の世界といったような神秘的な勧めではありません。ただ単純に、神様の霊に従うのか、自分に従うのかの違いを教えてくれているのです。

1) 肉に従って歩む

最初にはっきりと言われていることは「聖霊の導きに従うことを選びとりなさい」ということです。神様に従うことと自分の欲望を満足させることは決して両立しないからです。こう求められているのは、イエス・キリストに従って歩み始めない限り、すべての人は肉に従って歩んでいる状態にあるということです。それは誰もが罪深い、どうしようもない生活をしているということではありません。神様は誰の心にも良心を備えてくださいました。悲しませるよりは喜ばせたい、奪い取るよりは与えたい、がっかりさせるより力になってあげたい、という心です。それは、人をそのような道へと導く神様に従いたいという心です。しかし、神様を見失っている状態では、結局肉には勝てない、力のない不安定なものでしかないのです。

 

2) 霊の導きによって歩む

イエス・キリストは、私たちが見失った神様が、ご自身を表すために世に来られた姿です。イエスキリストは、ご自身が復活された後、天にあげられやがて人の目に触れることがなくなっても、彼の霊、聖霊という存在として導くから心配する必要はないとおっしゃいました。最初の弟子たちのようにイエス様を見ることができなくても、教会というキリストの体の交わりを通して、聖霊の導きを受け続けることができるのです。霊の導きを受けるというのは、不思議な声を聞いてそれに従うといったことばかりではありません。パウロはローマの信徒への手紙12章の冒頭で、霊的な礼拝(口語訳、新改訳、NIV)をささげなさいと勧めていますが、こちらの原語は「道理にかなった(reasonable Logical)」を意味することばです。私たちが「霊的」という言葉を使うとき、広くは「神様の真理にかなった」という意味であって、神秘的な現象とか霊に感じるといったことだけを指すのではありません。むしろ、キリストの体の一部として人々と力をあわせて、イエス様の働きを自分ができることでになってゆくということです。

 

B. 歩み方によって異なる実を結ぶ

1) 肉に従って歩むなら (19-21)

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

歩み方の違いは単純です。どちらかを選び取らなければなりません。そして選択はあなたに任されています。しかし結ぶ実は変えることはできません。このリストを見て自分には全く当てはまらないという人は、ここには書いてありませんが「嘘」という実を結んでいます。誰でも自分がかけだらけであることを知っています。それは良いのです。しかし、自分の生活にここの書いてある事が大きく影を落としているとしたら、それは楽しい幸せな生活ではありません。だから私たちは皆、そうではない歩み方をすべきです。それは聖霊の導きに従って歩むということです。

 

2) 霊の導きによって歩むなら (22,23)

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

キリストの体にしっかりつながり、自分の果すべき役割を見出しあゆみ続けるなら、あなたの実らせる実はこのようなものです。このリストにおいて自分に満点を付ける人も立派な「嘘」の実を結んでいます。イエス様は完璧を求めておられるのではありません。あなたの前進を期待しておられるのです。時には一日の終わりに、その日を振り返り、収穫した実がどのようなものであったか振り返ってみてください。

 

C. 霊の導きに従って歩み始めよう (24-26)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

そうです、イエス様はあなたの前進を、成長を楽しみにしておられます。遅々としたあゆみでもよいのです。三歩進んで二歩下がるような歩みでも良いのです。イエス様と共に神の国を目指して歩んでゆきましょう。あなたがイエスキリストの十字架を信じた人なら、あなたは自己中心という考え方を、捨てた人です。肉の歩みは楽しくもないし、正しくもないことを知った人です。私たちの、まだ十分に克服されていないネガティブな部分が前に出てきて、うぬぼれや妬みで関係を破壊することがまだ起こるのですが、「あっ、いけない」と気付いたら、主の背中をしっかり見つめて軌道修正しましょう。

 

メッセージのポイント
前回まで語られてきた律法か信仰かの生き方の違いは、自分の欲望に従って歩むのか、それとも聖霊の導きに従って歩むのかという行動の違いをもたらします。そして二つの歩みは正反対の実を結びます。聖霊の導きに従って良い実を豊かに収穫しましょう。そのために大切なことは、礼拝と主にある交わりを全生活の最優先事項として取扱うことです。

話し合いのヒント
1) それぞれの道が結ぶ実を確認してみましょう
2) どのように霊の導きに従えばよいのですか?