August 15th, 2010 Vol.17 No.33

刈り取るのは滅びか、それとも永遠の命か? ガラテヤの信徒への手紙6章1-8

A. 誰にでもやってくる罪の誘惑に対して

1) 互いに重荷を担いあう (1,2)

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。(1) 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(2)

罪の誘惑を受けない人はひとりもいません。聖書が罪というとき、「神様に背を向けている状態」というその本質を指して言う場合と、この罪の本質が目に見える形で、人を傷つけ悲しませる、行為としての罪を指す場合の二通りがあります。ここでは後者です。私たちは罪を赦されました。もう神様に背を向けた状態ではありません。しかし私たちの心には、古い罪の性質が残されています。これが完全に聖められるのは天に帰ったときです。そのような私たちでも聖霊は導いてくださっています。罪を犯したものに対する私たちの責任は、裁いて共同体から追放するのではなく柔和な心で、正しい道に立ち帰らせることです。そして、自分にも同じ弱さがあることを認めて、そうならないように気をつけます。「互いに」とあるように、立ち帰らせることも、誘惑におちいらないよう注意することもキリストの体の共同作業です。ひとりで出来ることではないのです。キリストの律法と書いてありますが、イエス様は旧約の律法に対抗して何か新しい戒めを決めて守らせようとしたわけではありません。イエス様は変質して形式的になってしまった律法を、神様の意思にかなった「神様を愛し人を愛する」ことを教えた本来の姿に戻されました。パウロはそのことをキリストの律法と表現しているのです。

 

2) 自分の行いを吟味する (3,4)

実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。(3) 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。(4)

ところが私たちの性分は、自分の罪には甘く、人の罪には辛いものです。周りの誰かが罪に陥ったときに、私はあの人よりもしっかりした信仰を持っているから大丈夫だ、自分は誘惑におちいらないなかなかのクリスチャンなのだと思ってしまう感覚を持っています。パウロは、「その誇りの感覚を消してしまいなさい」とはいいません。それはマインドコントロールのような手法を用いない限りできないことです。むしろ私たちが知るべきなのは、感覚と事実とは違うということです。事実は「誰一人、自分を誇れるものはいない」ということです。それは神様に教えられた預言者、ダビデ、イエス様、パウロの共通の認識です。

主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。(エレミヤ9:22,23)

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(Iコリント1:27-31)

しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。(ルカ10:20,21)

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが我らは、我らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが我らは力に満ちて立ち上がる。(詩編20:8,9)

 

B. 良い収穫を得るために

1) 自分で担う重荷がある (5,6)

めいめいが、自分の重荷を担うべきです。(5) 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。(6)

主イエス様以外に何も誇る者のない私たちが、人生において良い実を得ることができるのでしょうか?パウロは、むしろ私たちが自分を誇ることが虚しいということを知っているからこそ、良い実を得ることができることを教えてくれています。ただ良い収穫は自動的にはやってきません。収穫には忠実な農作業が必要なのです。2節に、互いに重荷を担いなさいとありましたが、ここではその前提として自分の負うべき荷物はしっかりと自分で持つ、責任を負うということに注意しましょう。それは愛し続ける責任です。パウロがここで聖書を解き明かす者について牧師について言及したのは、偽教師がやってきたことによって、それまで根気よく忠実に聖書を教えていた人々が軽んじられるようなことが起きていたからでしょう。このキリストの体といわれる教会を維持してゆくための働きや捧げ物もそれぞれが負うべき荷物です。

2) 人は必ず自分が蒔いたものを刈り取る (7,8)

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(7) 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(8)

先週、神様に従ってゆく人が得る良い実と自分中心に生きる人の刈り取る悪い実について、具体的に取り上げました。どんな実か覚えていますか?ここではそれぞれの実を簡単な言葉で表現しています。「滅び」と「永遠の命」です。一つ一つの季節の作物なら、一回失敗してもやり直しが効きます。しかし最後の最後まで自分の欲望に従って歩み続けるなら、結末は「滅び」だというのです。神様に従って歩むなら 「永遠の命」です。この二つの言葉が表す意味について2000年間ずっと議論され続けてきました。誰の考えが正しいか判断することはできません。私が思うには、滅びは誰の想像よりも酷いものであり、永遠の命は誰の想像より素晴らしいものだと思います。つまり、地獄がどういうものか天国はどういうところかを想像することは意味のない時間の浪費だということです。誰がどちらに行くということも余計なお世話です。聖書を総合して考えるなら、生きているうちにイエス様を主と告白しなければ滅びは決定だという考えも誤りです。私たちは神様ではありませんから、人の心の中まで見透かすことはできません。大切なのは、あなた自身が主を信頼して歩み続けるかどうかです。

メッセージのポイント
罪の誘惑は、誰にでもやってきます。巻き込まれてしまうこともあるのです。それが友達だったら?自分だったら?私たちが今共に歩んでいるのは、罪の問題が現れたときに、互いに助け合って、その人が立ち帰ることができるためでもあります。罪に陥った人を柔和な心で立ち帰させること、自分がそうなってしまわないように自分を吟味することが私たちに求められています。人の一生は、実を収穫するまでのプロセスのようですが、何よりも大切なのは、何を蒔くか、あるいはどこに蒔くかです。良い土壌に収穫を望む実の種をまかなければ、その後どんなに良い手入れをしても収穫はできません。互いに助け合いながら、神様の恵みによって心に蒔かれた信仰を、生涯をかけて育てましょう。

話し合いのヒント
1) 互いに重荷を担うとは?
2) 自分の担うべき重荷とは?