August 22nd, 2010 Vol.18 No.33

たった一つの誇りを持って生きよう ガラテヤの信徒への手紙6章9-18

A. 神様の畑で働いている私たち

1) たゆまず、飽きず働き続ける人が収穫を得る(9,10)

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(9,10)

物事をたゆまず行うことは容易なことではありません。どんなに意味のある良いことでも、長く続ければ慣れ、飽きてしまうものです。ここで勧められていることは、人々に対して善を行うことですが、それも例外ではありません。しかし、生涯、善を行い続ける人には豊かな収穫が約束されています。人生が実らせる実とはどのようなものなのでしょうか?一生かかって稼いだお金でしょうか?一生の間につくった友達でしょうか?家族でしょうか?名誉、名声でしょうか?それらは求めるものではなく与えられるものだと聖書は教えてくれます。では求めるべきなのは何でしょう?イエス様は「神の国とその義を求めなさい、そうすればあなたに必要なもの全ては添えて与えられる」とおっしゃいました。それは、ここで言う「善を行う」ということです。つまり「愛すること」とその愛に基づく「正義」を行うことです。全ての人に対してとあります。しかしそのすぐ後に「特に信仰によって家族になった人々に」とあるのはなぜでしょう?他の人々に対するよりも、教会の人々にはもっと良くしてあげなさいという、ことなのでしょうか?そのように差別して考えなさいということではありません。そうではなく神様の愛を知っていると言いながら、神様の家族と互いに愛し合えないなら、すべての人を愛することなどできないからです。神様を愛することも、互いに愛し合うことも、人々を愛することも、切り離すことのできない「あなたの愛」です。もっと正確に言うなら神様が日々満たしてくださる「あなたの愛」なのです。

 

2) 神様の畑で自分の収穫を求める者(11-13)

このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。(11-13)

パウロは手紙を書くとき誰かに口述筆記をさせていたようです。大きな字とありますから、小さな字できれいに長い手紙を書くことが困難であったのだと思われます。その理由は彼を苦しめた「とげ」(眼病やマラリアあるいはひどい頭痛、てんかんではなかったかと推測されている。- 2コリント12:7)であったかもしれません。しかし、手紙の最後の部分でもあるし、大切な事でもあるので自分の手で書いているのです。  多くの人の勘違いは、自分自身を自分の働いている畑のオーナーだと考えていることです。「私の人生の主人公は私だ」と当然のように考えています。求める収穫とは、自分の地位や名誉や財産だということです。自分の収穫だけが大切なので他の人々のことを省みることができません。収穫を期待できないような状況になれば、絶望するか、人の収穫を奪うかしかないのです。この勘違いがすべての悲劇を呼ぶのです。世界は神様のものです。特定の宗教や主義や国や個人のものではありません。世界は神様の畑で、私たちは働き人です。神の国と神の義を求めて生きているなら、自分が危機的な状況におかれても神様の助けは誰かを通して必ずやってきます。あなたもまた誰かの困難を助けることができるのです。

 

B. たった一つの誇り

1) イエスキリストの十字架(14,15)

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。(14,15)

聖書が一貫して「誰も自分を誇ることはできない」と教えていることを先週お話しました。聞き逃した人はユアチャーチのウエッブサイトで確認してください。では、クリスチャンは何を誇りに生きているのでしょうか?自分のことを誇らない私たちが誇るべきことが一つだけあるのです。実はその誇りが善を行ない続ける根拠であり力でもあります。それは「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」です。ここでは十字架の意味を「世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」と表現しています。普通に考えるなら、十字架にかけられることは社会から葬られることを意味するのですが、主イエスキリストの十字架は、それとは全く異なった意味を持っています。イエス様の十字架は、一見イエス様が裁かれたようですが、実はそこで、裁かれたのは社会の罪だったのです。だからイエス様はよみがえられ、神様によって死刑宣告された社会に代わって神の国を実現する働きを弟子たちに委ねられました。クリスチャンとは、イエス様の十字架で、罪の社会のメンバーだった自分も裁かれて死に、新しい命を与えられた者です。そしてクリスチャンの人生の目的は自分の置かれているところにあって善を行ない続けることです。それが神の国とその義を求めるということです。だからイエス様の十字架だけが私たちの誇りなのです。

 

2) その誇りを生涯にわたって持ち続ける(16-18)

このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(16-18)

なぜ人々は簡単に福音の真理から離れていってしまうのか?それがパウロの切実な悩みです。ユダヤ人と異邦人、律法の行いなど、目に見える事々を気にかけて、新しく生まれ変わったはずなのに、古い基準で悩み争っている人々のことを気にかけているのです。パウロが心配しているのは、彼らの日々の行いである以上に生き方の根本原理」なのです。そのような最も大事な点で心配させないでください、と切に訴えています。人が福音からそれていくメカニズムは今も昔も変わりありません。それは誇るべきものを忘れ、誇る必要のないものを誇ろうとすることから始まるのです。ただイエス様の十字架を誇りとして、歩み続けましょう。

 

メッセージのポイント
何でもほしいものが待たずにすぐ手に入ることが良いことだという価値観が支配的ですが、聖書はそれとは全く違う価値の在り方を教えてくれます。それは神の国のために勤勉に働き続けることに最上の価値を置くということです。この世界は神様の畑です。私たちが神様の意思に従って自分に与えられている使命を果すなら、世界全体が良い実を実らせることができます。しかしある人々は世界の所有者を神様だとは認めずに、自分勝手に自分の収穫を求めて自分のために働いています。そして収穫を忍耐強く待つこともできません。隣人が管理すべきところまで自分の作物を植えようとしたり、強引に水を引いて他人の畑を枯らせたり、あるいは他人の収穫を盗むことさえ起こります。私たちがそのような世界の中で、たゆまず善を行い、飽きずに励み続ける力は「十字架の誇り」以外にはありません。

話し合いのヒント
1) 人生において良い収穫をえるために必要なことは何ですか?
2) クリスチャンの持つべき唯一の誇りとは何ですか?