August 29th, 2010 Vol.18 No.34

心に蒔かれる祝福の種 マタイによる福音書13:1-23

A なぜイエス様を信じたのに、キリストの体から離れてしまう人がいるのか?

1. 道端のような心 (1-4,18,19)

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(1-4) 

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。(18,19)

イエス様を知ったら、その喜びを誰にでも告げたいものです。そして誰にでも伝えるべきです。新しく友達になった人が良い人なら、家族や今までの友達に紹介したいと思うのが自然です。多くの人にとってはイエス様と個人的に親しくなる事と、宗教団体に加わることの違いはわかりません。私たちはそのように思っている人々に遠慮して、積極的に伝えることを諦めてしまっているのではないでしょうか?もっと自然に自分にとって最も大切な友達を紹介してあげましょう。 残念ながら、他のことでは気が合って親しい人でも、イエス様のことだけは耳を開かない人がいることも現実です。残念ながらまだ「道端さん」なのです。そのような人々に対しては、いつかイエス様との共通の友達になれる事を期待して、親しい友達であり続けましょう。その人にぜひイエス様と親しくなって欲しいと思っても長く祈って待ち続ける期間を要するかもしれません。

2. 石ころだらけの土地のような心

ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(5,6) 

石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。(20,21)

テキストに忠実に読むなら、この喩えでは私たちは「種」ですが、そうすると成長は落ちたところ次第で、自分にはどうすることもできない事になってしまいます。でも、18節にあるように、私たちの心に神の言葉という種を蒔かれたともいえますから、今日は、自分の心を畑と想像して聞いてください。 かつてユアチャーチでイエス様に出会い信仰の歩みを始めた人々の中には、このような人々がかなりいます。もうどのキリストの体、教会にもつながっていないのです。聖書は教会をキリストの体だと教えています。イエス様は枝が幹につながっていなければ実が実らないどころか、枯れてしまうと警告なさいました。時々ふとそういった人々の顔を思い起こすと、どこかの教会につなげて下さいと祈ります。 信仰の根を張るには時間がかかります。周りの協力も必要です。私にとってはミニチャーチをもっと充実した形でみんなに提供できれば、根をはる前に離れていってしまった方たちをイエス様につなぎとめておけたのではないかと心残りなのです。 特に最近信仰を持った方の心に神様の言葉がしっかり根付き、またその方自身がが、ユアチャーチにしっかりと根付く事ができるようになるのは、私たち教会全体の責任です。

 

3. 茨がはびこる土地のような心

ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。(7) 

茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。(22)

ここからは、体につながっている私たちの心の状態チェックでもあります。キリストの体につながっているはずなのに、成長できない、花が咲かない、実が実らないということがあるのでしょうか?せっかくすくすくと育ってきたのに成長が止まる原因が世の思い煩いや富の誘惑とあります。これらをどう克服するかを後半でお話します。

 

4. 良い土地のような心

ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(8) 

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(23)

最後に紹介されている心は、御言葉を聞いて悟る人の心です。神様の言葉に永遠の命を見出し、神様の言葉をガイドに生きる心です。同じ良い地といってもずいぶん収穫に幅があるようです。また良い畑も手入れをせずにほっておけば、やがて荒地になってしまいます。どうしたらよい畑を保ち、さらに大きな収穫ができるかを、後半で考えてゆきましょう。

 

B.今からでも遅くない土壌改良と畑仕事

1. 心を耕す

一度耕された土地も、やがて固くなってしまいます。心を耕すとは、神様の恵み、日々の心の糧をよく吸収することができるように心の中を柔らかくすることです。また真理が根付くのを邪魔する大きな石が地中に隠れていたら、厄介ですが取り除かなければならないのです。このことは、あなたの祈りに答えて聖霊がしてくださることです。霊的な土壌改良には聖霊の介入が不可欠です。実はユアチャーチという神様の畑も、かなり硬くなっているのではないかと感じています。もっと大胆に聖霊の介入を求めなければいけないと促されているように思えるのです。

2. 心を毎日手入れする

収穫のためにはまず神様に心を変えていただかなければならないと言いましたが、私たちにもできること、するべきことがあります。それは言ってみれば日々の手入れです。良い農夫は朝早くから、夜遅くまで自分の畑に必要な仕事を次から次へとこなしてゆきます。これをサボると畑は雑草だらけ害虫だらけになり、よい収穫は期待できません。茨のはびこる畑です。自分の歩みが、イエス様に従っているものなのかどうか?思い煩い、誘惑に心が奪われていないか?静かに自分の心を探ってみましょう。共に聖日の礼拝を捧げること、ミニチャーチの仲間に心を砕くこと、毎日少しでも神様とのふたりだけの静かな時を持つことなどが心の手入れにあたります。

メッセージのポイント
なぜ聞いて全く心を動かさない人がいるのか?喜んで受け入れたのにすぐに居なくなってしまう人がいるのはなぜか?しっかりつながっているように見えるのに良い実を結べないのはなぜか?それは、その人の心の状態が「良い土地」ではないからです。良い実を実らせたいのなら、心の中の石ころを取り除き、雑草を抜いて、毎日良く手入れすることです。神の言葉という水や肥料も欠かせません。しっかり心の畑を守って良い実をたくさん収穫しましょう。

話し合いのヒント
1) 石ころだらけの土地のような心と茨がはびこる土地のような心の違いは?
2) あなたの心にはどのような手入れが必要ですか?