September 5th, 2010 Vol.18 No.36

祈る人は喜ぶ フィリピの信徒への手紙1:1-11

A. この手紙について

キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 (1-4)

1) 牢獄の中で書かれた「喜び」の手紙

この手紙は西暦60年頃ローマで書かれたか、あるいは55年頃エフェソで書かれたと考えられています。つまりイエス様の十字架の出来事から25あるいは30年後ということになります。ローマ説のほうがやや優勢ですが、どちらにも決定的な根拠はありません。内容からパウロは投獄されていたことが分かります。ところが(この手紙を読み終えたときに実感していただけると思いますが)喜びに満たされていて書いており、読み手に、同じように喜びなさいと勧めています。投獄されていても消えることのない喜びとはどのようなものなのでしょうか?ちょっとしたことで消えてしまう喜びなら世の中に沢山あります。手紙を書いたパウロは、獄死したとしても消えることのない喜びを持っていました。皆さんはいかがですか?持っているはずです。それはイエス様と共に歩む喜びなのですから。あまり感じられないとか、無いと感じられるのなら、今回のシリーズはあなたのためのシリーズです。このシリーズが終わる頃にはもうクリスマスがもうそこまで近づいている予定です。ここにいる全ての方が名実ともに「喜びの人」となってクリスマスを迎えられることを期待してこの手紙を読んでゆきましょう。

 

2) 愛において、信仰において成長し、ともに喜ぶ者になって欲しいという勧めの手紙

宛先のフィリピの教会はパウロの二回目の伝道旅行で52年頃、始まったギリシャ・マケドニア州の大都市(使徒言行録16章参照)の教会です。フィリピの教会では今まで取り上げてきたガラテヤの教会のような深刻な問題は起こっていませんでした。しかし、ガラテヤ同様、律法主義を持ち込む試みはなされていました。また、小さな問題は幾つかあったようで、パウロは時々、この手紙の中でも触れています。それは現代の健康な教会においても同じことです。むしろ自分の教会が非の打ち所のない完全な教会だと思っているとしたら、それは不自然な思い込みです。問題があっても良いのです。成長していく中でいろいろな問題に直面して、必要な免疫がついてゆくのは人間でも教会も同じことです。ただ主と共にいる喜びが、皆さんの中でどのようなときにも消えてしまうことなく、むしろ大きくなってゆくことを願います。 そこで、今日は「祈る人は喜ぶ」ということを知っていただきたいと思います。

 

B. 祈りは喜びを産み、守り、成長させる

1) 福音にあずかっている人々のために祈ること

それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。(5-8)

パウロはここで喜んで祈れることの理由を書いています。フィリピの人々が、信じたその日から今に至るまで福音から離れていないからです。イエス様が、彼を信じ主と共に歩んでいる人のなかで始められた素晴らしいことを完成させてくださることを、確信して喜んでいるのです。その恵みは獄中にいる自分にも感じられ喜びは消えません。自分のための感謝ばかりでなく、あの人を見出してくださったこと、この人を病から解放してくださったことを感謝して祈るときに、あなたの中の喜びの人は輝きます。ミニチャーチは互いに祈り合うことのできる最高の場です。互いに祈り合うことは、互いに愛し合うことの出発点です。ユアチャーチが、どの教会でも行っている祈祷会をしないのは祈りが不要だと考えているからではありません。むしろ、必要な祈りが必要なときになされなければいけないと考えるからです。第三世界で飢えに苦しんでいる人のために、世界情勢のために祈る必要はなくここにいる人のためだけに祈ればいいと言っているのでもありません。ただ目の前にいる家族のために誠実に祈らない人が、遠くの顔も見たことのない人のためにコンスタントに祈れるはずがないと言っているのです。どうかあなたもミニチャーチという祈りの仲間に加わって下さい。喜びの人になる第一歩です。

 

2) 人々のためにどう祈るのか?

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。(9-11)

その人に特別な祈りのリクエストがなくても、どのように祈れるかの基本がここに紹介されています。1)知る力、見抜く力を身につけて重要な事柄に対して正しく判断できるように 2)愛が豊かになるように 3)清さ、正しさにおいて成長できるように 4)神様の誉と栄光をもっとほめたたえる人とされるように。実はこれらはバラバラのことではありません。どれかが突出していてもバランスを欠いていたなら、それは健康な信仰とは言えません。牧師のためにもそのようにお祈り下さい。リーダーたちのために、お互いのためにそのように祈りましょう。祈りによって喜びは大きくなります。

 

メッセージのポイント
喜びの手紙とよばれるフィリピの信徒への手紙はパウロが獄中で書いたものです。パウロが体の自由を奪われていながら喜びに満たされ、その喜びをフィリピの人々にも持ってもらいたいと書かれた手紙です。変わることのない確かな喜びは、ただ神様にしっかりとつながっていることによってのみ可能なことです。祈りは神様との対話です。ですから、祈ることなしに「喜びの人」にはなれません。祈る人は、その祈りが喜びを産み、守り、成長させることを知ります。喜んで生き続けるために「祈る人」になりましょう。

話し合いのためのヒント
1) パウロが獄中にいても喜びにあふれているのはなぜでしょう?
2) なぜ祈りは喜びをもたらすのでしょうか?