September 12th, 2010 Vol.18 No.37 <喜び生きる人となる 2/8 >
宣べ伝える人は喜ぶ フィリピの信徒への手紙1:12-30
兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
イエス様を伝えたという理由で投獄される、ということを考えたことがありますか?もしそういう状況に置かれたら、イエス様のことを伝えることをやめてしまいますか?パウロはたとえそうなっても伝え続けました。命じられてでも、義務感からでもありません。喜んでそうしています。しかも彼が捕らえられたことは、返って福音の前進となったのです。このようなことは教会が始まったばかりの2000年前だけに起こったことではありません。この国でも太平洋戦争が終わるまで同じようなことが起こっていたのです。たった70年前に天皇に仕えるのかイエス様に仕えるのかと詰問されて「人にではなく神様に仕えます」と言って投獄され、獄死したクリスチャンがいたということを知ってください。そして今も同じことは北朝鮮で起きています。
キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
実は「主はイエス様であって天皇ではない」とはっきり言って投獄されたクリスチャンはそれほど多くはなく、多くのクリスチャンは色々な言い訳をして、天皇を神様に祀り上げた権力の言いなりになって、形だけの教会を守り、教団の長が公式に神社に参拝したばかりか、当時侵略していた朝鮮半島のクリスチャンに対しても権力と一緒になって天皇を礼拝すること強制したという残念な歴史があったのです。 わたしは過去の権力や教会を批判したくてこのような話をしているわけではありません。イエス様は投獄されることを恐れて身を隠し、宣べ伝えることをやめてしまう人も、自分が責められるのが怖くて同じ神の家族に偶像礼拝させた人も責めることはなさいません。ただ、愚かな間違いをできるだけ繰り返さないように、日本だけではありませんが、教会の歴史には暗い部分があることを知っているべきです。 以上のことよりももっと皆さんに考えてもらいたいのは、キリストのために監禁されていたクリスチャンと、彼らの苦しさを共にせず自分勝手に宣べ伝えていた(つもりの)自由な身のクリスチャンのどちらに喜びが溢れていたかということです。喜びではなく恐れによって天皇を礼拝し、朝鮮半島のクリスチャンにも同じことをさせた人の心の中にはどんな喜びがあったというのでしょうか?イエス様が下さる喜びは、処刑されることになっても、不治の病に冒されることになっても消えることのない喜びです。私たちが宣べ伝えているのはこの喜びです。だから伝えれば伝えるほど私たちの心の中にも喜びが満たされます。
そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
この部分を読んで自分のことを考えてみました。わたしは正直なところ、パウロのように世を去ってイエス様のところに早く帰りたいとは思えません。パウロは肉体的にもぎりぎりの苦しみにさらされ、伝道一筋の生涯で、妻や子供もなかったことを思うと、もし同じ境遇だったらそう思えるかなとも思えます。しかしそうではないので、まだ二人でやり足らないと思っていることも沢山あるし、孫の顔も見てみたい、波乗りももっと続けていたいと思うわけです。なんて自分勝手な!と思われてしまうかもしれませんが、神様が喜んで下さる理由もあります。ここで生かされている限り、人々に宣べ伝え、人々の信仰を深めるということもさせていただけるということです。しかし、誰にとっても期日を決めるのは神様です。明日帰って来いと言われても、文句をいうつもりはありません。人の魂にとってこの世界は第一幕に過ぎません。ここをどのような形で去ることになっても次があります。特にイエス様を主と信じた人に与えられているのは「永遠の命」です。中にはこの舞台に登場した途端に去る子供もいます。しかし神様は無慈悲な方ではありません。その魂は滅びてしまったわけではなく、次のステージに進んだのです。さて結論に移りましょう。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
迫害が起きた時、わたしはどうなってしまうだろう。宣べ伝えることをやめてしまうだろうか?そんなことを今悩む必要はありません。誰にもそんな力はないのです。しかし必要なら神様は誰にでもお与えになることができるのです。それよりもここに書かれているように、ひたすらにイエス様と共に今を歩むことです。心をあわせて、イエス様を、イエス様と共に歩む消えることのない喜びを伝え続けることが私たちの「戦い」です。これは人や、民族、国のための戦いではありませんから、サタン以外は誰も傷つくことのない戦いです。全ての人を、民族を、国々をサタンから奪い返し、世界に喜びを取り戻す戦いです。
メッセージのポイント
自分の責任で囚われているならそこには喜びはありませんが、パウロはイエス様を知らせていることで捕らえられているので心に喜びがあふれています。死を恐れるということは、肉体の死が永遠に至る一つの門であることを知る以外には逃れられない牢屋です。人生の価値はその長さにあるのではありません。私たちは戦いの中にいます。人々の魂を解放し神様のもとにお連れするという戦いです。真剣に戦っているなら、パウロの心の葛藤が理解できます。もう天国に凱旋してイエス様の近くで安らかに過ごしたいという願いと、もう一人でも多くの人がイエス様を主と知るために生きながらえたいという願いの間の葛藤です。でもそれはどちらも喜びをもたらすもの。帰る時については神様にお任せして、今はこの戦いを喜んで戦いましょう。
話し合いのためのヒント
1) 「生きるとはキリスト、死ぬことは利益」とは?
2) なぜイエス様を伝えることが戦いにたとえられるのでしょう?