October 10th, 2010 Vol.18 No.41 

メッセージノート シリーズ<喜び生きる人となる> 5/8
肉に頼らない人は喜ぶ 
(フィリピの信徒への手紙 3:1-11)

A 真の喜びをもたらすものを誇る

1. 神の霊によって礼拝するものになろう (1-3)

では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(1-3)

パウロは、ただイエス様だけを誇りましょうということを多くの手紙で書いています。つい肉に頼ってしまう人間の性質は今も昔も変わらないということです。この私たちの性質が、何よりも大切なものとして守りなさいと教えられている礼拝をも、肉に頼ったものにしてしまいます。洗練されたプログラムや音楽、感動的なお話、ドラマがあったとしても、神様に出会えた気がして、感動したとしても、それが本当の出会いでなかったとしたら、それは礼拝とはいえません。感情だけの喜びではなく、魂の喜びをもたらす礼拝。主に従って歩んでいこうという思いを新たにさせられるだけでなく、月曜日からの日常生活が実際に変わる礼拝、それが神様の霊による礼拝です。お祈り上手、お話し上手、聖書に精通していること、演奏自慢、歌自慢、お料理自慢といったプライドの組み合わせで、一見素晴らしい礼拝プログラムをつくることはできますが、そのようなものには人生を変える力、どんな時のも変わらない喜びをもたらすことはできません。割礼を誇る者のように、神様以外のものを頼るのではなく、ただ自分の身代わりとして十字架にかかられたイエス様に従ってゆくという決心が、心に割礼を施された者の印です。今朝も、そしてこれからもずっとそのような礼拝を捧げてゆきましょう。

 

2. たとえ誇れるものがあったとしても (4-6)

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(4-6)

パウロ自身は、ユダヤ教の名門の出身でした。ここに書いてあるとおりです。皆さんにはどのような誇れるものがありますか?財産、家柄、才能、容姿、地位?しかし、それらはすべて頼ってはいけない「肉」に属するものです。それらを頼りに生きることは、神様に背を向けることになってしまうからです。つまり聖書の教える「罪」です。なぜ神様に背を向けることが罪なのでしょう?しかし神様はただ自分に目を向けて欲しくてそう願われるのではありません。肉に属する誇りは簡単に失われやすく、無理に守ろうとすれば、私達自身が争い、傷付け、傷つくことのなる、そうなってほしくないと願っておられるからです。あなたが「肉」に属する誇りで、喜んでいるとしても、それは簡単に失われてしまうものです。ところが、パウロ自身が誇りとしていたものは、簡単には失われない、本当に非の打ち所のないようなものに見えます。もしあなたにパウロと同じような「肉」に属する誇りがあったとしたらどうでしょう?パウロは、はっきりとそれらが虚しいと知りました。イエス様と出会ったからです。7-9節を読んでみましょう

B. 肉に頼る過去から解放されたパウロ

1. 価値観の逆転がもたらした喜び (7-9)

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。(7-9)

当時の社会の中で恵まれた地位にあったパウロが、イエスキリストに出会い、その後に歩んだ人生と、キリストに出会うことなしに歩んでいた場合の人生と比べる時、パウロにとってはイエス様に会わなかったほうが良かったのではないかと感じる人もいるのではないでしょうか?もしイエス様に会っていなければ、高い地位、収入、名誉、裕福な大家族に恵まれた、当時の社会においては例外的なエリートとして生涯、何の不足も感じることなく生きることができたのですから。  しかし、イエス様に出会ったパウロは、約束されていた全てを投げ打ってしまいました。そしてイエス様に従います。そして迫害、病気、投獄、孤独に苦しんだ人生のように見えます。しかし、パウロは後悔するどころか、喜んでいます。それはこの世の与えるものとは比較にならない喜びをイエス様に頂いたからです。「肉」に属する誇りは、パウロに表面的な喜びを与えることができても、イエス様が下さるもっと深い魂の喜びを与えることのできない、ゴミのようなものだと直感したのです。たとえあなたが大きな誇りで喜んでいたとしても、そんな小さな喜びで満足してはいけません、と聖書は勧めているのです。イエスキリストに頼ることによって得られる喜びは、他に比べられるもののない喜びです。

 

2. 復活者として生きる (10,11)

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(10,11)

不確かな肉に頼る古い自分は、十字架で死に、よみがえられたイエスさまを主と信じて新しく生まれたのです。ですから、クリスチャンは喜ぶ者として新しく生きています。しかしクリスチャンが知っているのは力や喜びだけではありません。イエス様の苦しみと死を深く覚えて歩む者でもあるのです。 この部分を通して神様が私たちに教えておられるのは、クリスチャンの人生が忍耐や苦しみだけのものでもなければ、祝福や喜びを追求するだけのものでもないということです。世の中には「楽観主義者」と「悲観主義者」がいます。苦しみや悲しみには目を向けずに良いことだけを考えて生きる人と、良いことは皆忘れてしまって苦しいことや悲しいことに目が向いてしまう人です。しかしクリスチャンはそのどちらでもありません。クリスチャンは今ある喜びが、十字架の犠牲によって与えられているもの、苦しみから解放され、古い自分と決別したことによって与えられていることを知っています。罪の悲しさ深刻さを忘れないからこそ、救いの喜びは確かなものです。私たちの喜びは、今恵まれているから喜んでいられるというものではなく、キリストの十字架の死と復活に基づくものです。

メッセージのポイント
喜びを持てない根本的な原因は、間違った価値観に囚われていることにあります。救い主イエス・キリストだけが誇りであることは、ガラテヤの信徒の手紙でも学びましたが、イエス様だけが誇りでない限り、他の誇りに頼ろうとする限り変わらない喜びを持つことはできません。パウロはそのような誤った価値観をここで「肉に頼る」と表現しています。自分の能力、身分家柄、財産、自信といったものが実は本来、人のあるべき姿から私たちを遠く引き離しているのです。ユダヤ人としての一流の家柄、律法についての学識、ローマの市民であったパウロが、「それらのものはイエス様を知ることに比べれば塵芥のようなものだ」と言っているのですから、説得力があります。私たちは皆、多かれ少なかれ肉に頼って生きてきたのです。そのような自分に決別して生きるのは、罪に死に、復活したものとして生きるということです。肉に頼ることをやめたとき、喜びがあなたを満たします。

話し合いのヒント
1) パウロのいう肉とは何ですか?
2) あなたのかつての誇りはどのようなものでしたか?