October 17th, 2010 Vol.18 No.42 

メッセージノート シリーズ<喜び生きる人となる> 6/8
キリスト・イエスに捕らえられている人は喜ぶ 
(フィリピの信徒への手紙 3:12-21)

A 捕らえてはいないが、捕らえられている

1. 捕らえられている幸せ (12)

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(12)

パウロの反対者は、自らを「完全な者」と誇っていたようですが、パウロは自分がクリスチャンとして完成してはいない、と理解していました。そして「できるだけイエスさまの似姿に近づく努力をしている」と言っています。それが全てのクリスチャンにとって正しい自己認識です。彼は「キリスト・イエスに捕らえられているから」という不思議な表現をしています。普通なら、「イエス様を信じたから」といったような表現をします。私たちは「私が(他の宗教ではなく)キリスト教を信じた」とか「私が(他の神々ではなく)イエス様を選んだ」と考えがちですが、実はそうではないのです。イエス様があなたを選んだのです。だからクリスチャンとして完成したわけではないけれど、亀のような歩みでも、のびのびと安心して進んで行けるのです。イエス様はこうおっしゃっています「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネによる福音書15:16) 」 イエス様に捕らえられている者は、世が与えることのできない喜びで満たされています。責められるところがないからです。問われているのは、過去に何をしたかでも、今何を持っているかでも、どんなスピードで走っているかでもなく、ただ何に向かって進んでいるかということだけなのです。イエス様は、私たちがしてしまったこと、できなかったこと、持っていないものを問題とされないので、私たちはそれで喜べないという心配はいらないのです。パウロは余計なことに一喜一憂せず、たった一つのことに心を注ぎなさいと勧めてくれているのです。それは何か?答は次の13、14節にあります。

2. なすべきことはただ一つ (13,14)

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(13,14)  

誰もクリスチャンとして完成した人はいません。パウロもそのことを「すでに捕らえたとは思っていません」と表現しています。イエス様のような姿に近づいて行くというのは生涯の営みなのです。簡単には到達しません。しかし絶対に得ることのできない蜃気楼を追いかけるような虚しい道のりではありません。イエス様は距離を保って逃げるような意地悪な方ではありません。遥かに長い道のりであるとしても、その時その時のささやかな前進を喜んで祝福してくださる方です。ところで、この箇所では皆さんに誤解してほしくない点が二つあります。  一つは「後ろのものを忘れ」といっても、過去を吟味、反省しなくても良いということではないということです。問題なのはロトの妻(創世記19:26)のように過去にとらわれて前進できないという状態です。フィリピには「律法を守らなければクリスチャンとして完成しない」と言いふらす人々がいたわけですが、例えばそれが忘れるべき後ろのものです。教会が過去の栄光や伝統にとらわれて、その歩みが鈍ったり、脇道にそれてしまったりすることは今でも起こります。未来に向かって正しく進むためには、過去から正しく学ぶことは大切です。  もうひとつは「賞を得るため」という言葉です。パウロは当時の人々にとって身近だった競技に例えて、ひたすら走るように神の国を目指して進もうと教えたかったのであって、クリスチャンの成長が賞品目当てのようなものであると言っているわけではありません。もっとも、走り終えたとき、イエス様が迎え入れてくださるというのは何よりの賞品です。しかし走りぬいた人は誰でももらえます。いってみれば参加賞ですが、どんな一等賞より素晴らしいものです。間違っても、より頑張った人には豪邸や高級車が与えられるなんて考えないでください。それでは天国が、飢えている民を尻目にオリンピックゴールドメダリストにそういったものを与えるような国程度のところだということになってしまいます。ところで私たちの競技はどんな競技か知っていますか?愛するという競争:神様を愛し、隣人を愛し、世界を愛するという競争だということをお忘れなく!

B. 喜びをより確かなものにするために

1. 模範として歩んでいる人に目を向ける (15-17)

フィリピの教会に悪い影響を及ぼしていたパウロの反対者たちは「自分はすでに真理を捕らえた完全な者」と自称していました。そこでパウロは皮肉を込めてこう言っています。

だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたが たに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。(15-17)

パウロは自分に倣いなさい、あるいはテモテやエパフロディトのようなパウロの弟子を模範にしなさいと言っています。反対者も自分に倣えと言っていました。しかし大きな違いがあります。パウロが自分もまだ途上にあるということを認めた上で私に倣いなさいと言っている点です。パウロのうちに真理があるから倣うのではなく、彼の真理を求める生き方に倣いなさいと言っているのです。教会のリーダーに従うとは、このような意味で従うのです。自分が完全で最高だという人が最もイエス様と遠い人です。それぞれの成長時期に従って必要な糧は違います。赤ちゃんにはビーフステーキは噛み切れないし、消化できません。大人はベビーフードでは体が持ちません。信仰の学びも同じです。互いを身近なお手本として成長してゆきましょう。

2. 行き先は二つ (18-21)

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(18-21)

行き先は二つというと、ある種の人々は目を輝かせて、私たちの行く天国はこんなに素晴らしい、不信者を待つ地獄はこんなに恐ろしいと、見てきたような(実際に見せられたと主張する人もいます)話を期待しますが、ユアチャーチにそのようなことを期待しても希望にはそえません。わたしたちには、天国がどのようなところか、地獄がどのようなところかを研究することを求められてはいません。そのような事柄に心を奪われ、何とかして聖書に書かれていないことを知ろうと思うことは健全な信仰ではありません。それは偽預言者を印税で富ませることにしかなりません。私たちは聖書の知恵で満足するべきです。それは十字架の福音です。十字架から人の注意を逸らそうとすることは、十字架に敵対していることだと知るべきです。この当時の人々は、パウロを含めてイエス様の再臨は、その時代の多くの人が生きている間に起こると考えていました。そのようにはならず2000年が経過しているわけです。いつその日が来るのか誰も知りません。知る必要はありません。私たちがなすべきことはただ一つだけです。イエス様に捕らえられたものとして「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」ことです。時がよくても悪くても愛し続けましょう。喜び続けましょう。

メッセージのポイント
私たちが、神様を得ているとか、捕らえたのではなく、イエス様が私たちを得られた、捕らえてくださったと考えることが大切です。永遠の命は、私たちが何かをしたから得たのではなく、イエス様が十字架にかかって与えられたものです。確かに私たちは信仰に生きる決心をしました。しかしそれも、私たちが神様を選んだのではなく、神様が選んでくださったことを知ったというのが真相なのです。私たちは、自分の感覚しか知りませんから、つい自分中心に考えてしまいます。この、感覚、感情で物事を判断してゆくなら、私たちは決して満足することはできません。神様に大切なものとして見出され、守られ、育てられていることを覚えて、滅びへの道ではなく栄光に至る路を歩み続けましょう。

話し合いのヒント
1) キリストが自分を捕らえたとはどのような意味でしょうか?
2) 到達したところに基づいて進むとは?