October 24th, 2010 Vol.18 No.43
メッセージノート シリーズ<喜び生きる人となる> 7/8
良い事に心を留める人は喜ぶ (フィリピの信徒への手紙 4:1-13)
だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。(1-5)
最初の「だから」は3:21の「イエス様がその偉大な力によって私たちをご自身と同じ姿に変えてくださる」を受けての言葉です。「このように」はこの約束を期待して、十字架に敵対する者ではなく、私やエパフロディト、テモテを倣って、ということです。それにしてもこの熱烈な呼び掛けはどうでしょう?パウロがどれほどこの教会の人々を心にかけているかがよくわかります。教会のみんなが、様々な間違った教えや誘惑に負けて打ち倒されてしまうことなく、しっかり立っていてほしい。パウロに限らず、私たち全ての思いではないでしょうか?「主によって」という言葉を見過ごさないでください。私たちは自分の力では、勝ち目がないのです。イエス様と共に歩んでいることによってのみ、固く立っていることができるのです。ここに二人の女性の名前が載っていますが、それは少し恥ずかしい理由でした。この二人は熱心に教会の働きをしていたようですが、どうも仲が良くなかったようです。というか、遠く離れたパウロが手紙を書かなければならないほど険悪だったようです。もし彼女たちが、この手紙が聖書の一部となることを知っていたなら、パウロに知られる前に仲直りしていたかもしれませんね。しかし、誰かが助けてくれなければ当事者同士ではどうにもならなくなっていたのです。教会はキリストの体とはいえ、生身の人間の集まりです。波長が合わない人がいてもいいのです。しかし、争いになってしまったなら、誰かに手伝ってもらってでも和解しなければなりません。争いの中にいれば、喜ぶことはできません。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(6,7)
思い煩いはどこから来るのでしょう。人間関係、仕事、勉強、お金。しかし、どんなことでも思い煩うことをやめなさい。とあります。思い煩いに支配されている人に喜びはありません。パウロはどうしたら思い煩いから自由になれるか、答え付きで命じています。それは礼拝すること、祈ること、願うことです。そうすれば、現実はまだ変わっていなくても、まずあなたの心が解放されます。人知を超えた神様の平和が、あなたの心から、思い煩いを締め出すのです。イエス様と共にいること、命の書に名前が記されていることを自覚すれば、肉の現実ではなく、霊の現実を見て喜べます。霊の現実とは、イエス様に固く支えられて立っているあなたのことです。目に見える現実での必要は、イエス様がおっしゃっているように「ただ神の国とその義を求めるなら、あなたに必要な全ては、添えて与えられ」るのです。あなたはこのイエス様の言葉を信じますか?どうか信じてください、この方の言葉ほど確かなものはありません。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。(8,9)
いつも私たちがバプテスマやBBQをする相模川に行くと、二種類の人がいることが分かります。ある人はみどりの豊かさ、風の爽やかさ、澄んだ水に素直に感動して「神様こんな自然を作り楽しませてくれてありがとう」と喜ぶのです。別の種類の人がいることを発見しました。この種の人の目に入るのは、みどりでも澄んだ水でもありません。河原に落ちているゴミや川向こうの工場の煙突を見て不快に思い、心を痛めるのです。そうすると美しく輝く水面を見ても、きっと上流で生活排水が流れ込んでいるに違いないと考えてますます不幸になってしまうのです。確かに、私たちの日常では、ここに書かれていることとは反対の事ばかりが目につきます。嘘偽り、恥ずかしいこと、悪いこと、汚れたこと、憎むべきこと、不名誉なこと、不道徳なこと、誉められないこと。そのようなことばかりを見続けるなら、喜ぶどころか、心は打ちのめされてしまいます。しかしあなたがクリスチャンなら、どんな悲惨な状況の中でも神様の手を、働きを見ることができます。いえ、世が暗闇であるならあるほど神様がその背後にいて輝かせている人や出来事は発見しやすいはずです。価値ある事に心に留め、祈り、応援し、参加しましょう。特に、神様から、聖書から、周りのクリスチャンから学んだこと、受けたこと、聞いたことを少しずつやってみてください。そうすれば、光を見て喜ぶだけでなく、あなた自身が輝き始めます。
さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(10-13)
13節をもう一度みんなで読みましょう。英語でも日本語でも、大きな声ではっきりと読みましょう。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。どうか、この言葉をしっかりと心に留めてください。獄中のパウロが、はっきりと実感を込めてこう言っているのです。パウロは、フィリピの人々はしばらくの間、することのできなかったサポートを受け取った事を非常に喜び、しかしその大きな喜びが、彼らの負担にならないように注意深く感謝の言葉を綴っています。主に生涯を捧げている人は、神様に支えられて生かされています。必要は神様が満たして下さる事を確信しています。その必要はほとんどの場合、神様に思いを与えられた誰かを通して満たされます。神様はその都度、喜んで助けたいという人を起こされます。だからパウロは誰にせよ、負担に感じさせたりはしません。イエス様が一緒にいてくださる事を知れば知るほど、どんな境遇でもイエス様の香りがする良いものを見て喜べる。それはパウロだけに与えられている特権ではありません。ですから、もう一度パウロのように、声を合わせて言いましょう!わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
メッセージのポイント
クリスチャンは個人としての成長も期待されています。しかし、それぞれの成長も互いに支え合い協力することなしにはできないことです。一人一人は、もう悩みを一人で抱え込む必要はありません。神様に打ち明けることができるからです。しかし、これも個人的なことにはとどまりません。思い煩いについても同じキリストの体に属する人々と互いに支えあうことができるからです。思い煩いから自由であれば、日々の歩みの中で本当に価値のある物事を見出し、それに積極的に関わってゆくことができます。あなたがそのようなこと求めて歩むことが神様の喜びです。そのような歩みをしている人は境遇に左右されず常に幸せで喜んでいます。神様と共に歩んでいるからです。全能の神様と共に歩んでいるなら、その歩みを留めることは誰にもできません。
話し合いのためのヒント
1) どうしたら思い煩わずにすむでしょう?
2) いついかなる場合にも対処する秘訣とは?