October 31st, 2010 Vol.18 No.44
今日は何の日? 宗教改革の三原理
今日<10月31日>は教会にとって大切な日です。ハロウィンではありません。ハロウィンは教会とは全く関係ない、聖書にも何も書かれていない風習です。ユアチャーチの皆さんには、宗教改革記念日としておぼえていただきたいのです。今から500年くらい前、1517年10月31日ドイツのヴィッテンベルク大学のチャペルの門にマルティン・ルターが張り紙をしました。修道士、司祭であったルターはこの大学で神学を教えていました。その張り紙は、それまでの教会の在り方がいかにイエス様の福音からかけ離れていたかを告発し、信仰の原点に立ち返ることを勧めるものでした。プロテスタント教会の出発点です。ルターが指摘した「立ち戻るべき信仰の原点」を忘れないことは、私たちがイエス様に従う道を踏み外さないためにとても重要です。宗教改革の原理は三つあります。一つずつ考えてゆきましょう。
この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 (黙示録22:18-21)
私たちの従うべき権威は神様の言、聖書だけです。皆さんは、当たり前ですとおっしゃるかもしれませんが、500年前は当たり前ではなかったのです。当時のキリスト教会は、ローカルな教派も多少ありましたが、ヨーロッパ大陸の東側の正教会、西側のカトリック教会が大きな存在でした。特にカトリック教会はとして政治的にも経済的にも宗教的にも大きな影響力を持っていました。ローマ教皇はその権威の頂点に立ち、「ローマ教皇は間違わない」という考えさえあったのです。大げさに言えば、教会自体が権威となって、聖書は引退させられてしまったよう状況だったのです。ちょうどイスラエルに与えられた律法に様々な人間的な伝統や習慣を混入させることによって律法主義が大きな力を持ったように、教会自体が権威となり、人間の権威の常で、すっかり腐敗していました。人々はこの権威を通してしか聖書の言葉を聞くことをゆるされてはいませんでした。聖書に根拠を持たない教義が神様の言葉という権威を着て人々の心を支配していました。イギリス人ウィクリフはこの時よりさらに100年前、聖書を英語に翻訳しましたが、彼は異端とされその聖書も禁書とされてしまいました。今読んだ黙示録の警告にもかかわらず、聖書の教えと権威は今でも危険にさらされています。神様の言葉に何かを付け加えたり、神様の言葉から一部を取り除いた自分勝手な解釈はどの時代にも現れてきて、私たちを恵みから引き離そうと試みます。この誘惑は私たちの心の中にも忍びこんで。たとえば神様の言葉である聖書よりもカリスマ的な指導者の言葉に従ってしまう。新しいムーヴメントに夢中になって信仰の原点を見失ってしまうことがあるのです。自分で聖書をよく読みましょう、神様の語りかけに耳を傾けましょう。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ3:21-26)
さて権威に関しては聖書のみとお話しました。次に神様との関係を回復する、正しい者と認められる、罪を赦されることに関しては「信仰のみ」という原理を心に留めましょう。信仰のみということは、行いによるのではない、ということです。何か良いことをしたら、神様の前に正しい者として出られるほど、私たちの罪は軽くはありません。何しろ自分を作ってくださった方を無視したり、反逆したりという性質を持ったものです。当時の教会では聖職の職位がお金で取引きされたり、また犯した罪の償いを軽くしてもらえる証明書を発行して利益を得るというビジネスモデルまで考案されたりして、ただイエス様の十字架による赦しを信じ、イエス様に従ってゆく信仰だけが救いの道であることを、教会自体が否定してしまったわけです。そしてこのことも私たちの遠くにあるエピソードではなく、今も私たちを惑わす罠です。礼拝に熱心だから、教会の働きにたくさん関わっているから、聖書をよく読むから、長い時間祈るから神様があなたを正しいものとされるのではありません。十字架にかかられたイエス様を主と信じたから正しい者とされているのです。これを忘れた教会は律法主義に後戻りした教会です。そこには神様の愛はありません。愛し合う教会ではなく、裁き合い、傷付け、傷つき合う教会なら、それはもう神様の教会ではありません。実はこの問題は、今シリーズで学んでいるフィリピの教会を始め、多くの初代教会ですでに現れていました。パウロはそれらを正すために多くの手紙を書いたのです。パウロが教会を作ると必ずそこに、律法を守らなければ本当のクリスチャンではないと言って混乱させる人々が入り込んできました。そして状況は今も変わってはいません。神様が命じてもいないことを、神様が命じているかのように命じる人がいるかと思えば、自分の不完全な部分を指摘されて、自分は神様に喜ばれていないのでは?と思い、落ち込んでしまう人もいるのです。もう一度確認しておきましょう。あなたはただイエス・キリストを主と信じる信仰によってのみ正しい者とされています。ですから、人にもあなた流の正しい行いを押し付け裁かないようにしましょう。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)
宗教改革の時代、いつの間にか人々にとってイエス様は遠い存在になってしまいました。人々の不信仰のせいではありません。教会が人々を遠ざけたのです。私たちを神様に引き合わせる仲介者は神さまであるイエスさまだけ、つまり人間の仲介は必要ないというのが聖書の教えです。ところが教会は「普通の人々は聖職者とよばれる祭司を通してイエス様と交わることができる」と教えをねじ曲げてしまっていたのです。牧師は常にそのように振舞う誘惑があることを自覚していなければなりません。誘惑に負けた牧師は、教会を神様の手から奪い、神の国の一部を自分の帝国にしてしまいます。カルト教会の誕生です。一方、教会のメンバーも誘惑にさらされています。聖書のことも、教会のことも、人々にイエス様を伝えることも牧師にお任せで、自分は観客になってしまうという誘惑です。自分にためになる話を聞いて恵まれるために礼拝に来、気が向いたことには参加してする気楽さへの誘惑です。ここは劇場ではありません。皆さんは観客席に座っているのではありません。ここは作戦会議室 (War Room) です。私はこの教会の責任を負う牧師ですが、実は皆さんも一人一人それぞれに遣わされている場所の責任ある牧師なのです。私の役割は世に遣わされている牧師である皆さんのコーチです。私が羊飼いで皆さんが羊なのではありません。皆さんが羊飼いで、皆さんに委ねられた羊は皆さんの周りにいるのです。私はみなさんが神様の命令に忠実に仕えることができるように仕えているインストラクターです。だから祝福の祈りの締めくくりは、「皆さんを遣わされている場所に送り出します」なのです。宗教改革記念日は迷子になった教会が、イエス様にもとに立ち返る事のできた記念日です。あなたの信仰は間違った道に迷い込んでいないでしょうか?ユアチャーチは迷子になっていないでしょうか?しっかりとイエス様から目を離さず、歩みを進めてゆきましょう。それでは牧師さんたち、今週もイエス様と共に、それぞれの場所で愛の働きをしに出かけましょう。そして来週またこの作戦会議室でお会いしましょう
メッセージのポイント
宗教改革は、福音からそれてしまった教会の歩みをもう一度もとに戻すために重要な出来事でした。その時に、問題となったことは神様の言葉である聖書と同じように教会の権威や伝統を大事にし始めたことです。それは救いがただイエス様の十字架による罪の赦しを信じ、イエス様を主と信じる信仰によるのではなく、教会の権威や伝統に従うことも必要とされた、という第二の問題と、一般の人々は宗教的な高い階級の人の助けによって神様につながっているという三つめの問題を生み出していました。私たちも同じように福音から遠ざかってゆく傾向を持っています。だから、いつでも心しておかなければならないことは、聖書にのみ真理を求めること、十字架にのみ救いを求めること、そしてしっかりと自分自身でイエス様につながっていることなのです。
話し合いのために
1) 宗教改革はなぜ起こったのですか?
2) どんなことが改革されましたか?