November 7th, 2010 Vol.18 No.45 

分かち合う人は喜ぶ フィリピの信徒への手紙 4:14-23

A. 苦しみを分かち合う喜び

1) パウロと苦しみを共にしたフィリピの教会 (14,15)

それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。(14) フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。(15)

救い主イエス様を伝える良い知らせは、この手紙を書いたパウロによって小アジアからヨーロッパにもたらされました。フィリピはパウロによるヨーロッパ伝道の最初の拠点となりました。西暦49年のことです。フィリピの教会は、ここから始まったパウロのヨーロッパ伝道を物心両面で支えていた唯一の教会だったのです。交通も通信も発達しておらず、ユダヤ教、ローマ帝国、ギリシャ文化の強い影響下での伝道は多くの困難を伴いました(使徒言行録16-18章)。いくら優れたパウロといえども、教会の支えなしに成果を得ることはできませんでした。現代の教会の働きでも同じことが言えます。イエス様を紹介する働きは教会の働きであって、個人プレーではありません。それは、私たちのすることは人を教会に連れてくることだ、ということではありません。あなたが誰かに伝えるときに、教会全体の祈りとサポートが必要だということです。私たちの喜びは、私達自身の満ち足りた生活を享受することから得られるのではありません。自分たちの満足がゴールとなったとき、本当の喜びは失われます。今ユアチャーチには具体的なチャーチプランティングの計画はありませんが、神様が用意しておられ、神様のタイミングでその計画が知らされ、歩みだす時が来ます。今でも困難はあり、それに上回る喜びがユアチャーチにありますが、新しい地域でのプランティングが始まれば、困難はさらに大きくなるはずです。けれども喜びもまた、今の喜びより遥かに大きく確かなものになるのです。

 

2) 神様は宣教を支える教会を祝福する (16,17)

また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(16) 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。(17)

献金やキリスト教団体への寄付、牧師、宣教師、神学生へのサポート、愛の贈りものにも、同じ原則が働きます。私自身も、教会の人々を通して、何度も窮乏を救っていただきました。人からの贈り物をあてにしたことはありませんが、神様が必要を満たしてくださることを信じていました。神様は一度もこの期待を裏切られたことはありません。先週、この場は劇場ではなく、作戦会議室です。皆さん一人一人がそれぞれの場所に遣わされた羊飼いですとお話しました。だから私たちは互いの困難が、経済的なものであれ、健康問題であれ、人間関係であれ互いに助けあうのです。それは自分に対して犠牲を求めることです。苦しみを共にすることです。しかしそこに、豊かな実が実るのです。私たちは、その実がもたらす大きな喜びをともに味わうのです。私たちが献げるのは、ユアチャーチがひとりでも多くの人にイエス様を伝え、イエス様に従う者を起こし、愛の働きを担う者に育てるためです。私たちが困難の中でも互いに支え合い、働きを続けてゆくことで、世界の不幸、矛盾、悲惨が、あなたの周りから一つずつ、少しずつ、幸いに、調和に、喜びに置き換えられてゆくことを見せられるほど大きな喜びはありません。

B. 豊かさを分かち合う喜び

1) 宣教の働きを担う者へのサポートは神様への献げ物 (18)

わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(18)

なぜ献金やサポート、愛の贈り物が豊かな実を結ぶかというと、神様が、その人を助けるだけではなく、ご自身に献げられたものとして受け取ってくださるからです。ここでわかるのは献げることが礼拝の一部でもあるということです。アナウンスでも触れられましたが、ユアチャーチでは他の多くの教会のように礼拝プログラムの中で献金を献げることをしていません。また誰がどれだけ献げているかということを牧師もリーダーも知らないようにしています。しかしそれは、献金を礼拝と切り離して考えているわけでも、どうでもいいものと考えているわけでもありません。まだクリスチャンの少ない日本では日曜朝の礼拝には、そうではない方が多く来てくださいます。そのような方々が気まずい思いをしないでも良いように、聖餐式と同様に献金は別のプログラムとして行われています。献金はその教会のメンバーの自発的な神様に対するささげものであって、目に見える人や団体の必要を満たすことが第一の目的ではありません。

 

2) 神様は喜んで献げる者の必要をすべて満たしてくださる (19-23)

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(19) わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(20) キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。(21) すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。(22) 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。(23)

誤解しないでください「気前よく献金する人を神様は満たしてくださる」ともっと献金することをアピールしているのではありません。自分自身を献げる者、つまりイエス様を主と信じ従っている者に全て必要なものを満たしてくださるというのです。それはイエス様の表現を借りるなら「神の国と神の義を求める者」です。パウロはこの手紙の締めくくりの部分でキリスト・イエスに結ばれている聖なる者たちと表現しています。聖なる者とは、イエス様に結ばれている者です。その人が気高い、クリスチャンらしい、高潔だということではありません。イエス様に結ばれることによってあなたは聖なる者になるのです。そのあなたの必要を神様は完全に満たしてくださいます。 どうしたらキリスト・イエスに結ばれている者になれるのでしょう?結ばれていると受身で書かれている通り、イエス様の聖さ、完全とは遠くかけ離れた私たちには自分をキリスト・イエスに結びつける事はできません。私たち結びつけてくださるのは神様です。私達ができることは、信じて従うことだけです。何をどう信じたら良いのでしょうか?聖書に答えがあります。神様は私たちが自分の力では到底乗り越えることのできない大きな断絶を、世界で最初のクリスマスにイエスという一人の人としてきて下さり、十字架の苦しみと死によって埋めて下さったのです。私たちはただ、今までの歩みが間違っていたものであることを認め、イエス様が自分の主であることを信じ、生涯従ってゆくことを決心するのです。ここに世界で最も大きな、尊い、永遠の喜びがあります。今日まで8回にわたってあなたが知らなかった、忘れていた喜びを取り戻すためのお話をしてきましたが、根本はここのある「キリスト・イエスに結ばれた者」になるということです。次回からクリスマスに関するシリーズが始まります。あなたの「変わらない喜び」のキーパーソン、イエス様の誕生について聞きましょう。もしまだなのでしたら、あなたも主を信じ「キリスト・イエスに結ばれた者」となって、最高の喜びを手に入れてください。

 

メッセージのポイント
喜びは人生を神様に献げることによって与えられます。今日のテキストから、神様に人生を献げるとは、宣教の困難を分かち合うこと、豊かさを分かち合うことでもあることが分かります。自分で自分の必要を満たそうとする限り満足することはなく喜びはありません。誰かの必要を満たそうとするなら、神様はあなたの必要なものをすべて満たしてくださり、真の喜びを得ることができるのです。

話し合いのためのヒント
1) メッセージを通して神様が自分に語られたと思われたのはどのようなことですか?
2) フィリピの信徒への手紙全体を通して最も印象に残ったことはどのようなことですか?