November 14th, 2010 Vol.18 No.46 

クリスマスを待ち望む心 クリスマスシリーズ 1  マタイによる福音書 1:1-17

1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、 3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、 4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、 5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、 6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、 7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、 8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、 9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、 10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、 11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。 12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、 13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、 14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、 15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、 16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

A. アブラハムに始まりイエス様で終わる系図の意味

1) アブラハムの名 (1,17)

これはイエス様の系図なのに、その題名として、アブラハムとダビデが併せて書かれています。この系図の中でイエス様に次いで重要な意味を持つ人達だからです。始めに系図の始まり、アブラハムに注目しましょう。アブラハムについてはよく知っている方も多いと思います。彼の元々の名はアブラムでした。国民の父という意味を持つ名前です、ところが神様はアブラハムと名前を変えさせます。「ハ」が入ると意味は「全ての民の父」に変わります。当時の人々は、イエス様が救い主だと信じることはできませんでした。彼らは、ダビデやアブラハムのようなヒーローを長い間待ち望んでいたのです。彼らの目から見たイエス様は、この二人とは全く違っていたので受け入れることができなかったのです。彼らのプライドは、イエス様に指摘されても自分も罪人の一人だと認めることはできませんでした。自分たちは律法を与えられそれを守ってきた民、異邦人や罪人達とは違う、というのが彼らのプライドです。しかしすでに民族の始まり、アブラハムの名前に世界規模の救いの計画が示されていたのです。彼の名前の変更が実際に表わされたのは、イエス様が来てくださった時です。アブラハムは信仰によって生きる人でした。この系図に載った人々は様々です、罪を犯すこともありました、弱さも持っていました。スキャンダルを起こした人もいます。それでも共通して言えることは「アブラハムのように信仰によって生きた人」ということです。

 

2) ダビデの栄光と罪 (1,6,17)

ダビデはイスラエルの歴史の中で最も人気のある王です。神様が大好きで、礼拝することが大好きで、祈ることも大好きで、史上最高のワーシップソングライターでもありました。しかし反面、彼には弱さがありました。その最悪の出来事が17節に書かれています。自分の忠実な部下の妻を奪い、その部下を最前線に送り戦死させてしまったのです。それでも、彼の人気は不動です。彼は誠実に悔い改めたし、実際に自分たちの安全を保証し、富ませてくれたのだから、その程度の罪は目をつむろうということでしょうか?救い主メシアはダビデの子孫として生まれる預言されていました。民の期待通り、イエス様はこの系図の最後に登場です。それでも、アブラハムのところでお話したように受け入れることはできませんでした。イエス様は人々の想像を遥かに超えた方でした。問題の根源は私たち一人ひとりの心の中にあること。心が神様から離れていることが問題なのだと言われたのです。ご自身はダビデのような罪の弱さを全くもっていませんでした。例えばダビデのように実際に姦淫の罪を犯さなくても、心の中でそのようなことを願うだけでも神様の前には、罪であるとおっしゃり、誰も私には罪はないという資格がないことを明らかにされました。自分自身の力では正しく生きることはできない。しかし、この真理を認めることが難しいのです。クリスチャンとは、この真理を受け入れた者です。アブラハムやダビデのように信仰の人となることです。イエス様が来られて、信仰の人になる道は全ての人に開かれました。私は道であり真理であり、命ですと言い切った人は、人類の歴史の中でただ一人です。何の罪を犯すことなく、自ら進んで十字架にかかって苦しみ死んだ人も、三日目によみがえった人もイエスキリストの他には誰もいません。今、イエス様は最悪の大嘘つきとしておぼえられているのでしょうか?それとも救い主として慕われているのでしょうか?それは誰の目にも明らかです。その誕生を2000年近く憶えられ、祝い続けられている人は他には見当たりません。あなたの問題がどの様なものであっても、真の答えはイエス様が持っています。

 

B. 不名誉な系図が意味すること

1) 系図に載った女性(3,5,6)

今よりもはるかに男性社会であった社会の系図にタマル、ラハブ、ルツ、バト・シェバ(ウリヤの妻)、そしてマリアという5人の女性が登場しています。マリア以外の四人の共通点は皆、異邦人であるということです。当時のユダヤ人社会にあっては、異邦人の女性、しかも中には出来れば触れたくない事件の当事者さえ含まれている不名誉な系図なのです。けれどもここに、アブラムがアブラハムとされたことと並んで、神様の計画が前人類に及んでいることを示しています。5人の女性の共通点は、自分の理解を超えた出来事に振り回された経験を持つことですが、神様はそのような事々の中でも神様を信頼してすがる彼女たちを、信仰の人としてご自身の救いの計画に用いたのです。

 

2) イエス・キリスト:家系の外から家系の中に(16)

聖霊によって身ごもったマリアなのですから、当然、イエス様は父ヨセフとは血のつながりはありません。再来週ヨセフの視点から見たクリスマスについてお話ししますが、ヨセフは天使のお告げで、理解できないこの事実を受け入れ、イエスと名付け、彼を子として受け入れました。そうして、この系図は関係者以外には意味のないものではなく、全ての人に重要な意味を持つものとなりました。この系図はイエス様で止まっています。イエス様は結婚なさらず、従って子供もいません。イエス様の名を信じる人は皆、神の子とされます。その意味では、全ての人に、イエス様の子としてこの系図に連なることができるということです。あなたは既に神の子とされていますか?まだそうでなければ、今日、神様の招きに応えて信仰の人、神の子供となってください。

 

メッセージのポイント
イエス様が生まれる前の時代に自分が生まれていたことを想像したことがありますか?今なら誰でもイエス様を主と信じて従うチャンスが与えられています。しかしクリスマスの出来事以前のイスラエルの民は長い間メシア=救い主を待ち望むしかなかったのです。そのことを知るならクリスマスをもっと感謝して、喜びにあふれて迎えることができます。この系図から、まだ救い主が来られる前の人々の素朴な信仰と、罪から来る社会の限界、罪と弱さの中でも貫かれる神様の計画を見ることができます。弱さの中にこそ、罪深さの中にこそ表わされる神様の救いの計画は、アブラハムの時にスタートしイエス様によって完成されます。

話し合いのためのヒント
1) なぜ新約聖書の最初の一章がこの系図なのでしょうか?
2) この系図には何人の女性が載っていますか?それにはどのような意味がありますか?