December 12th, 2010 Vol.17 No.50

マリアのクリスマス アドヴェント第三日曜日 クリスマスシリーズ 5 ルカによる福音書1:26-38

A 歴史の中心点に立ち会った女性

1) 主があなたと共におられる(26-29)

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(26-29)

これから何が起こるかということを、神様はヨセフだけにではなくマリアにも告げようとしていました。天使がどのような姿でマリアを訪ねたかは想像するしかありません。そのような興味をわきにおいて、ここで注目しなければいけないのは、天使ガブリエルの挨拶の言葉です。「あなたはとても恵まれています。主はあなたと共におられます。」 それは、マリアが戸惑うような言葉でした。恵まれているとは、主が共におられるとはどういう事なのか? 実感のない、唐突な言葉だったからです。マリアは考え込みます。けれどもこの答えはすぐには出ないのです。イエス様が十字架にかかり、復活され、イエス様が天に帰られ、その姿が見えなくなっても教会がキリストの体として力強く全世界に向けて広がり続けるのを見て、初めてマリアはその意味の全容が理解できたのだと思います。私は皆さんにも「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言いたいと思います。マリヤのように実感が伴わない方もおられると思います。「その通り!私は恵まれていて、主が私と共におられる。」と言える方はどのくらいいらっしゃいますか?実はこのことこそがクリスマスのメッセージなのです。あなたには主と信じて従うべき方がおられます。この方とともに歩むことこそ、最も恵まれた人生です。

 

2) 恐れることはないと言われても (30-34)

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(30-34)

恐れることはないと言われても、これほど混乱することはないでしょう。マリアが納得出来ずに反論するのも当然です。私たちには、「実は、あなたには仕えるべき本当の主人がいます。それは神である主イエス・キリストです」と告げられているのです。恐ろしいことではありません。差し迫って判断を求められていることでもありません。それで多くの人は、今は考えたくないと言ってクリスマスの雰囲気だけを楽しんで満足してしまうのです。でもそれは、どんなに沢山のプレゼントを貰っても、一番価値のあるプレゼントを受け取っていないということです。あなたが、そしてあなたの愛する人達が、このクリスマスに神様からの最高のプレゼント「イエス様」を受け取ってくださることを心から祈ります。イエス様に従って歩むことほど確かな人生の歩みはないからです。

 

B 私たちがマリアに学べること

1) 神様にできないことは何もない (35-37)

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」(35-37)

「神様にできないことはない、それはそうでしょう。」自分とはかかわりのないことなら誰でも簡単に言えるのです。人が困っているとき、恐れているとき、私たちは「大丈夫、神様にできないことは何も無いから」と励ましますが、いざ自分のこととなると、突然神様が何も出来ない方のように思えてしまいます。しかし「神様には何一つ出来ないことはないという信頼の感覚」は少しずつ体験してゆくことによって身についてきます。イエス様を信じて歩む人にとって毎日は奇蹟の連続です。神様を信じない人はそれを偶然と呼びます。出来事を偶然と思う限り心は決して休まりません。ラッキーはもう二度と訪れないかもしれない、不幸はいつまた訪れるかと不安はつきません。けれどもすべてが神様のコントロールのもとにあることを認めるなら、何も不安に思うことはないのです。あなたも主に従うことによって、自分の人生において神様にできないことは一つもないことを体験してください。

 

2) 私は主のしもべ (38)

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(38)

誰も、誰かの奴隷にはなりたくありません。自分の思い通りに振舞いたいのです。召使ではなく主人になりたいのです。だからイエス様だろうが誰であろが、誰かを主人と認めるのは抵抗があるのです。私が私の人生の主と思いたいのです。聖書には、よく逆説的な表現がみられますが、もっとも重要な逆説は、「本当の自由を得たいならイエス様に仕える者にならなければならない」イエス様は「私が真理である」とおっしゃり、また「真理が自由を与える」とおっしゃいました。このようなことを言えるのは彼が危ないカルトの教祖か、あるいは本当に神様なのか、どちらかでしかありません。答えを決めるのはあなたです。しかし聖書はイエス様だけが私たちの従うべき主であると証言します。私たちも証言します。どうかこの証言に耳を傾けて「私は主のしもべです」と告白してください。

 

メッセージのポイント
歴史には始まりがあり、終わりがあります。それが聖書の歴史観です。そして始まりと終わりの間の歴史の中心がイエス様の誕生です。目にみえない神様が目に見える形でご自身を現し、神様から離れて闇のうちを歩む人々にもう一度希望を与えるために約30年をイエスという一人の人として生きられたのです。マリアは普通の人でありながら「神の母」として歩むことになったのです。マリアほど衝撃的にではないにしても、私たちは皆この理性では受け入れがたい出来事を通して「あなたはどう生きるのか」と問われているのです。主はあなたと共におられ、何も恐れることはないのです。「神様にできないことは何もない」と信じ「私は主のしもべです」と告白しつつ歩み続けましょう。

話し合いのためのヒント
1) クリスマスは歴史のなかでどのような位置を占めているのですか?
2) この箇所のマリアからあなたは何を学びましたか?