January 30th, 2011 Vol.18 No.5
聖霊に満たされ、賜物を活かす
(ヨエル2:27-3:2、ヨハネ14:15-17、使徒1:3-5, 2, 8:15-17, 10:44-48, 19:1-7、ローマ 12:3-8
I コリント 21,14、ガラテヤ5:17-23)
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ15:14-17 )
世界のすべてを創造された神様、イエスという一人の人として来て下さり私たちの罪を十字架で赦してくださった神様、この神様だけを主と信じ従ってゆく人を、神様は神の子としてくださいました。神の子とされた私たちには相応しい身分、権威が与えられています。しかし問題はその権威に相応しい力を発揮しているかどうかということです。あなたはイエス様に従ってゆきたいと思っているのに、自分には解決できない問題によって、思うように歩めないと悩んでいませんか?イエス様は十字架に掛けられる前に、ご自分が天に帰られたあと、イエス様としてではない別の在り方で来て下さり、導いてくださると予告されました。三位一体のもう一つの位格「聖霊」です。クリスチャンとは三位一体の神様を信じる者です。使徒言行録の時代から今に至るまで、イエス様抜きのキリスト教、神様抜きのキリスト教を主張する者が現れますが、それはキリスト教とは言えないものです。キリスト教会にとっては、神様の在り方は三位一体でしかありえません。しかし現代のキリスト教会、クリスチャンの中には教えとしては三位一体を信じていると言いながら、実質的には聖霊抜きで歩んでいる者が少なくありません。ある人々は、聖霊に満たされることを願ってはいけない。なぜなら聖霊はあなたが信じたときに既に与えられているからだ。と言っています。聖書はどう言っているでしょうか? イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1) 復活されたイエス様は、その姿を見て喜んでいる弟子たちに向かって、「さあすぐに行って宣教しなさい」とはおっしゃいませんでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」とおっしゃったのです。それは、旧約聖書ヨエル書の預言が成就することを意味していました。 イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。 その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。 その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。(ヨエル2:27-3:2) 彼らは待ち、与えられました。ペンテコステの出来事です。使徒言行録では、聖霊に満たされるということが、信じてバプテスマを受けること連動しているものではないことが数カ所にわたって記されています。この力を受けて教会は始まったのです。この力を受けた者だけが、自分の罪の性質に支配されずに、自由に、燃え尽きてしまうことなく仕え続けることが出来るのです。自分の力に頼っているならば、自分の限界が働きの限界です。自分の問題すら解決できず、それ以上頑張れば燃え尽きてしまうだけです。だから聖霊に満たされなければなりません。
聖霊の力に満たされることによって自分の問題は克服できます。しかし、私たちが自分に委ねられた働きを進めるためには、もうひとつはっきり知っておくべきことがあります。それが聖霊の賜物、プレゼントです。ローマの信徒への手紙12章やコリントの信徒への第一の手紙12章などに詳しく書かれています。先週学んだヘブライ人の手紙2:4には、神様が聖霊の賜物を御心に従って分け与えて下さると、書かれていました。賜物は私たちが、組み合わされて用いられるために欠かせない、神様が与えてくださる具体的な能力です。 コリントの信徒への第一の手紙12章を開いてみましょう。ここには様々な賜物の種類。どのように分け与えられるのか。私たちの働きにとって賜物が欠かせない理由。そして、賜物と教会の働きとの関係が分かりやすく述べられています。 コリントの教会は、いろいろ問題の多い教会でした。問題の本質は、自己中心的な罪の性質を正しくコントロール出来ないという、いつの時代のクリスチャンにとっても共通の課題でしたが、コリントではそれが、聖霊の働きや賜物に関連して起こっていたのです。集会の中で無秩序に異言や預言が語られたり、そのような賜物を持つ者が特権的な意識を持ったりすることによって、最も大切な「愛」が軽んじられていました。そこでパウロはこの12章から3章を費やして正しく教えなければならなかったのです。 多くの教会が、ここから聖霊や賜物については、コリントの教会のように混乱しないために、その時代だけの特殊な出来事として、今は求めてはいけないのだと判断したのです。けれども、これらの部分を注意深く読めば、それは間違いで三位一体の否定にさえつながる危険があることが分かります。実際、現代のキリスト教の様子を見ていると、どの教会もイエス様の命令通り世界中に出ていって福音を宣べ伝えていますが、成果を挙げているのは聖霊の力と賜物を積極的に働きに用いている教会です。反対に、聖霊の働きを無視している人々の教会は年々、人数を減らし、教会も減らし、牧師になろうとする人も減っています。どんなに工夫して新しい伝道方法を考えても、もっと時間や労力やお金を費やしても、聖霊の働きを頼まなければ決してうまくはいきません。自己中心は聖霊に満たされることなく解決することは出来ません。そして聖霊の中心的な働きが賜物を分け与えることです (12:11)。神様の働きは、神様に与えられた力によってすることができます。私たちは組み合わされたものとして、それぞれに与えられている異なった賜物を発揮して、神の国の建設というひとつの仕事を行っているのです。大きな建物を完成させるには、様々な技術を持った人々のティームが必要です。資金を調達する人、全体の設計する人、様々な工事を担当する人、電気、ガス、水道などの専門家、工事車両を運転する人、現場の安全を確保するために警備する人、法律家。地上の仕事にも天国の仕事にも貴賎はありません。どのような働きが欠けてもうまく進まないのです。どの賜物を持った人が偉いというわけでもありません。神様が思いのままに分け与えるものだからです。賜物によって働きは遂行されるのですから、賜物のないことについてできないと自分を責める必要はないし、賜物によるのだから、どんなに素晴らしい働きをしたとしても誇ることはできないのです。大切な事は自分が与えられている賜物によって仕えるということです。賜物によって働くなら燃え尽きることはありません。
聖書を見てゆくと様々なケースがあるようです。こうしなければならないという作法のようなものもありません。使徒言行録2章では、イエス様に命じられ待っていた弟子たちの中で突然起こりました。耳に聞こえ、目に見えるような仕方で起こり、皆が満たされ他の国の言葉を語りだしたのです。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録 2:1-5)
8章では、以前に水のバプテスマを受けた人の頭にペトロとヨハネが手を置くと彼らは聖霊を受けました。
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 (8:15-17)
10章ではまだバプテスマを受けていない人々がペトロの話しを聞いているときに聖霊を受けたのです。
ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。(10:44-47) 1
9章ではパウロが水のバプテスマを授けた直後に、手を頭においた人々聖霊が下りました。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。 (19:1-7)
どうして満たされたとわかったのでしょうか?それはそこで現され賜物によってでした。このことが異言の賜物を特別扱いする考えをもたらし、ある人々は「異言」を語ることが聖霊に満たされた証拠だと主張しています。しかし異言は賜物の一つに過ぎません。彼らは、聖霊に満たされるという言葉より、聖霊のバプテスマという言葉を好みます。でもバプテスマと言うと一回限りの儀式のようなものを指すように感じられるので、私たちは満たされるという言葉を使うのです。感覚だけに頼る信仰は危険ですが、かといって感覚を軽視することも間違いです。異言を語り出さなくても、心にあふれる感情や、熱いとか、震えるとかの感覚で聖霊の満たしを確信した人もいます。忘れてはならないことが二つあります。一つは、聖霊に満たされることも、賜物が与えられることも、それ自体が目的ではないのだということです。目的は、それぞれが与えられた働きを力強く、燃え尽きることなく喜びを持って続けてゆくためです。そのために感覚は大切です。飢え渇きを覚えるなら何度でも満たしていただくことができます。そしてもうひとつは、その人が本当に満たされた人であるかどうかは、その人の感覚ではなく、客観的にわかるということです。ガラテヤ人への手紙 5:17-23を開きましょう。
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 (ガラテヤ 5:17-23)
それは聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)(ガラテヤ人への手紙 5:22)を結んでいるかどうかということです。私は聖霊に満たされています。こういう賜物に優れています、と主張してもその人が霊の実ではなく、肉の業をしているなら、自分の思いこみに過ぎないということです。
異言や預言なら与えられたことはすぐ分かりますが、ほとんどの賜物は聖霊を受けてもすぐにはわかりません。どうしたら知ることが出来るのでしょうか?答えは簡単です。試してみることです。それが賜物であるなら、自分の力以上に発揮され、続けることに苦を感じ無いでしょう。誰かを癒そうとしないなら、癒しの賜物があるかどうかは分かりません。もっとも賜物がなくてもしなければならない時もあります。賜物があろうがなかろうが、親は子どもの熱が下がるように祈ります。そして、即座に熱が下がることがあるのです。賜物があるとは、そのことを普通の人のレベルを超えて表すことが出来るということです。神様の働きのために何でも試してみるというのが第一歩です。それをしていくうちに自分の賜物のあるなしが分かってきます。それによって私たちは劣等感からも、優越感からも解放され、組み合わされて良い実を実らせることができます。
メッセージのポイント
クリスチャンは聖霊の力によって生きる者です。無力であることを自覚していることは大切ですが、それは力を発揮しなくても良いということではありません。自分の力では動きそうもない障害物に絶望して、正しいと信じる道を進むことを諦めてはいけません。むしろ聖霊に満たされること、賜物を発見し用いることによって前進を続けましょう。
話し合いのためのヒント
1) あなたは聖霊に満たされていますか?
2) あなたにはどの様な賜物が与えられていると思いますか?