February 6th, 2011 Vol.18 No.6

イエス様は… (ヘブライ人への手紙2:10-18)

A 神として

1) 万物の目標であり源である方(10-11a)

というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。(10-11a)

ここに書かれていることは、神様が完全ではなかったイエス様を、試練を通して成長させ完全な救い主にしたということではありません。始めから完全な方が、私たちを、神の子供達という栄光の(そして実は本来の)地位につかせるために苦しみ、十字架にかかって死なれたことを言っているのです。神様がすべてのものを創られたのだから、すべてのものの源だというのは当然です。しかし目標とはどういう事なのでしょうか?それは私たちがその源である泉から離れてしまっているということです。ご自身の似姿として人を作られた神様は、背いた人間がもう一度神様の家族の中に復帰させるために、最初で最後のチャンスを与えてくださいました。それがイエス様という方なのです。そして私たちは、英語の聖書のほうがずっと分かりやすいのですが、全ての人が聖められて、聖めて下さったイエス様とともに同じ神の家族の一員となる、という究極の目標に向かって歩んでいるのです。

 

2) 私たちを兄弟、姉妹と呼んで下さる方(11b-13)

それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。(11b-13)

放蕩息子の喩えのように、親に背き、親と共に生きられずに罪の中で苦しんでいる私たちを連れ戻すために、目に見えない神様は目に見える形をとって、来て下さいました。背かれた神様が背いた者の姿となってまで、その関係を回復しようと手を差し伸べてくださったのです。そして兄として、私たちに立ち返る道を提供し、その道を歩むことを勧めてくださったのです。神の子としての資格を与え、その生き方を教えてくださいました。神様の愛に生きるという生き方です。そして先週お話ししたように、ご自身の存在が肉体を持ったものではなくなると、聖霊として来て下さり、私たちが神様の愛に生きる力も与えていてくださいます。私たちはこの神様に創られ、この神様と共に、この神様に向かって歩んでいます。それが私たちの地上での営みです。だから私たちはこの方を礼拝することを中心に生きるのです。思いを尽くし、心を尽くし、力の限りに愛に生きるのです。この愛に生きることに気づいていない人々に知らせるのです。

 

B 人として

1) 私たちと同様に肉と血を備えた方(14-16)

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。(14-16)

人間は霊的な存在であると同時に肉体を持つ被造物です。霊である神様が肉体を持って存在されたことにどういう意味があるのでしょうか?肉と血はやがて滅びるということの象徴です。限界がある、終りが来るということの象徴です。痛みや悲しみの象徴です。聖書はここで死の恐怖という言葉を使っていますが、それは持っていたものを失ってしまう恐怖です。自分が霊的な存在であることを忘れ、肉体がすべてであると思っているなら、死はすべてを失う出来事ということになります。すべてを失う恐怖に耐えられる人はいません。心を麻痺させるしかないのです。私たちが神様に背いたことによる最大の報いは、その霊が神様から切り離され悪魔の手に渡ったということです。悪魔は巧妙にその事実をカモフラージュし、死の恐怖からの救いを神様に求めるのではなく、一回きりの短い人生、ただ自分の満足のために生きるようにそそのかし、欲望と罪を増大させ、時々良心が疼くようなことがあっても、もう手遅れだ、諦めろ、楽しめと囁きます。そして神様に立ち帰らない限り、全てを失う事実を避けることができずに、体が滅びる時を迎えます。まだあなたがこの差し出されたイエス様の手をとっていないなら、どうかこの聖書のメッセージがあなたのために語られていることを受け入れてイエスキリストに従ってゆく決心をして下さい。

 

2) 私たちのために私たちと同様の苦しみを味わった方(17,18)

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(17,18)

私は一日中汗水たらして働き、それでも生活は苦しい、人と争い、子どもを育て、こんなに苦労をしているのに、神様は遠く上の方から眺めているので、私の苦しみなんかどうせ分かってもらえない。という歌を聞いたことがあります。そんな気持ちに誰でもなったことがあるのではないでしょうか?クリスチャンなら、そんなことはないと理屈では分かっていても、そんなふうに思ってしまうことがあるのです。それでも神様は私と共にいてくださると信じたくて、ユダヤの民は、律法を守ることで、それが保証されると考えました。けれども、もともと神様が求められる正しさは、人の努力ではパスすることができない厳しいものです。この心情はユダヤ人だけのものではありません。こうしていれば、地獄には落ちない。こういう功徳を積めば極楽に行けるといった教えは至る所で見られます。しかし、聖書の教える共にいて下さることのの保証は、イエスキリストの十字架です。私たちの良い行いではないのです。イエス様は天上で人の運命を弄ぶような神でもなければ、単に私たちが目標とすべき理想的な偉人でもありません。イエス・キリストは誰よりもあなたの苦しみ悲しみを体験的に知っていて、憐れみ深く助けてくださる真の神であり真の人なのです。

 

メッセージのポイント
あなたが信じている、知ろうとしているイエス・キリストとはどのようなお方なのでしょうか?彼は唯一の神であり、人となって私たちの進むべき方向を指し示してくださった方です。万物の目標であり源である方であるのに私たちを兄弟、姉妹とみなし、実際に肉体を持ってこの地を歩まれ、私たちの苦しみや悲しみをご自身の体験として知っておられる方です。イエス様は天上で人の運命を弄ぶような神でもなければ、単に私たちが目標とすべき理想的な偉人でもありません。イエス・キリストは真の神であり真の人なのです。

話し合いのためのヒント
1) 今週のテキストによればイエス様はどのような方ですか?
2) 目標であり源であるとはどういうことですか?