February 13th, 2011 Vol.18 No.7

神様の家 (ヘブライ人への手紙3:1-6)

神の家:旧約聖書では、狭い意味では「神の家は聖所・至聖所のある特別なテント」のことを指し、広くは神様の支配という意味で用いられています。新約聖書では明らかに、教会を指した言葉です。(テモテ1 3:15)

A 忠実な大祭司の兄弟姉妹として生きる

1) イエス様についてよく考えよう(1,2)

だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。

神様はイエスという一人の人として、すべての人のために、お兄さんのような存在となり、地上での歩み方を教えて下さったと、先週お話ししました。私達にとって誰よりも親しくなるべき特別な方です。だからイエス様のことを考えなさいと勧められています。私たちは、良く考え、彼を信じて従ってゆこうと決断し、公に言い表してクリスチャンになったのですが、それで考えるのをやめてしまってはいけません。そこでクリスチャンとしての成長は止まってしまいます。ここではそのイエス様が「使者」であり「大祭司」と呼ばれています。最初の12人の弟子たちは「使徒」と呼ばれましたが、同じ言葉です。その意味は「離れて・送り出された・人」です。大祭司はユダヤ教において神様と人との間を取り持つ祭司の最高位で、年に一度の特別な犠牲を神様に捧げるための特別な場所「至聖所」に入ることを許された、たった一人の人間です。しかし歴代の大祭司も人であり、完全ではありません。罪の赦しのための犠牲は毎年行わなければなりませんでした。つまり、イエス様は神様から送られた方(神の国の代表)であると同時に、人間の代表でもあったということです。旧約聖書の概念に当てはめるなら「預言者」であり「祭司」であるということです。旧約聖書では、一人の人がこの両方を兼ねるというのは例外的なことでした。ここで引き合いに出されているモーセはそのような存在でした。注目したいのは、最初に書かれている、私たちも「天の召しにあずかっている」ということです。私たちは単に憐れみによって救出され、保護され続ける存在ではなく、この家の重要なメンバーとして神の国の働きをしなさいと命じられている聖い者たちなのです。弟子たちが使徒とされて送り出されたように、私たちも「天の国に呼ばれ、成長して世界に送り出されて働く者」であることを憶えましょう。家は、健康な者にとって、その中だけで生活する「世界」ではありません。小さな赤ちゃんや病人は家を出ることはできませんが、健康であれば出かける所であり、帰ってくる所です。

 

2) 万物を作られた神様と共に(3,4)

家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。

イエス様が神ご自身であるということを信じることの困難は、現代の私たちよりもむしろ当時のユダヤ人にとってより大きかったのではないでしょうか。彼らにとって、イエス様は、異端者か、よく見てもせいぜい預言者の一人であって、モーセのほうがはるかに偉大だとおもわれていました。そんな彼らに向かって、ここで著者は大胆にも、イエス様は創られた者ではなく、創った方だと主張しているわけです。キリスト教と自称しながら、イエス様は優れた人ではあっても神様ではないと教えている団体はキリスト教とは呼べません。私たちは世界を創られた方と共に、世界を治めようとしているのです。

 

B 私たちは神の家

1) イエス様が治めている家(5,6a)

さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。

仕える者として忠実であるのと、長子として忠実である事の違いはどこにあるのでしょうか?偉大な指導者であったモーセにとっては、イエス様の十字架は未来の出来事です。それでも、その未来に起こる完全な救いを待ち望みながら、神様に忠実に歩みました。イエス様は、子として、つまり持ち主としての権利を相続するものとして、今、神の家を治めています。パウロはその手紙の中で、「教会はキリストの体」という表現を良くしていますが、私たちは機能としては組み合わされた器官ですが、それだけではなく助け合い、守りあう家族でもあるのです。

 

2) 確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば(6b)

もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

以上のように私たちに与えられた素晴らしい特権を失わないために、しっかり持ち続けなければならないことについてお話しして終ります。それは、確信と希望に満ちた誇りです。確信とは、困難の中でもイエス様を信頼し、従って歩み続けるということです。元の言葉は、特に試練の中で信仰を大胆に、率直に語ったり、告白するという意味で用いられています。確信は困難の中でこそ働きます。困難が来れば消えてしまうのは確信ではありません。希望に満ちた誇りとは、まだ地上においては完成していない神の家の一員としての誇りです。まだ、取り巻く現実は問題だらけです。なんて嫌な世の中なのだろう、と思ってしまうことが世界中で起きています。一方では、少し経済的な余裕のある人々や国々は、問題に目を背けて、お金で買える部分的な幸せを楽しんでいます。私たちに与えられている特権は、目に見える問題に押しつぶされることもなく、問題を忘れていようと何か他の虚しい物に夢中にならなくても、しっかりとした足取りで歩み続けられるということです。困難の中で絶望せずに、確信と誇りを持ち続けるために、私たちは神様を礼拝し、互いの交わりを保ち、使者として世に知らせ続けるのです。

 

メッセージのポイント
なぜ歴史上実際に登場した方を私たちが神様と信じ従うのか?それはイエス様の姿が肉の目で見られなくなった今も、救い主イエスとして造られたこの世界を治めておられるからです。世界の全体が本来なら神の家であるはずですが、そこには神様に背き続けている人もいます。まだ実質的には世界全体に神様の支配が及んでいるわけではありません。イエス様は2000年前に来られて神の家を回復し始めました。私たちが神の家というのは、教会がこの世界の中にあってすでに神の家の実質を備えているからです。私たちが誰かにイエス様を紹介し、その人がイエス様を信じて従い始めたとき、神の家の家族が一人増え、神の国が少し広がったということになります。私たちが確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、この神の家の一員として祝福された家庭がさらに拡大してゆくのを見ることができます。

話し合いのためのヒント
1) イエス様がモーセより大きな栄光を受けるに相応しいのはなぜですか?
2) 神の家とは何ですか?