February 20th, 2011 Vol.18 No.8
キリストに連なる者になる (ヘブライ人への手紙3:7-19)
荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」(9-11)
それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。(15-19)
アブラハムから始まったイスラエル民族は三代目ヤコブの時代にエジプトに移り住みました(創世記37章以下)。ヤコブの子ヨセフはエジプトNo.2 の地位に上り詰め一族はエジプトでも尊敬されていましたが、時代は変り、おびただしく数が増えたイスラエル人は嫌われ、奴隷のような状態におかれていました。この状態を救ったのがモーセです。彼らの指導者となり、民をエジプトから脱出させ約束の地に向かって出発したのです。そのカナンの地への道のりは直線距離なら500Kmにもならない距離です。いくら徒歩の旅だとはいえ40年もかかるわけはありません。約束の地に40年も入れなかったのは、距離の問題ではなく彼らの罪の問題でした。だからモーセに導かれてエジプトを出た人々はヨシュアとカレブ以外には誰一人約束の地に入ることはできませんでした。旅の途中で一生を終えたのです。つまり入ることができたのは二人の例外をのぞいては、荒野の旅の中で生まれた新しい世代の人々でした。イスラエルの民は憐れみによって救い出され、神様の奇跡的な介入によって窮地を逃れることが出来たのに、物事がうまくいけば高慢になり、うまくいかなければ神様を呪い、少しでも心細くなれば偶像を求めました。残念ながらこのようなことが教会の中でも起こります。だからこそ、私たちは油断せずに、いつも主に従って着実に歩み続けるのです。
だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。(7,8)
しかし、それでも神様は語ることをおやめにはなりませんでした。私たちに対してもそのようにしてくださいます。その神様の声に聞き従うことが、災いから身を守り、後悔のない人生を歩み通す秘訣です。聖書の教える後悔のない人生とは、キリストに連なる人生です。もう少し具体的に、キリストに連なり続けるために欠かすことのできない三つのことをお話しします。語りかけに耳を傾けること、日々互いに励まし合うこと、最初の確信を持ち続けることです。
それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」
神様の声は注意深く聞こうとしないなら、聞くことはできません。また、普通は耳に聞こえる音声としてきこえるわけでもありません。心の中に聞こえる声です。また誰かを通して語ってくださいます。それは牧師のメッセージとは限りません。小さな子どもを通してさえ語ってくださいます。誰かが声を発しなくても、その行動を通しておしえてくださいます。だから、思い過ごしだと無視してしまうことも出来ます。反対に、自分の思い込みを神様の声と信じてしまうこともあります。どうしたら精度を上げることが出来るのでしょうか?その答えは簡単です。それはやってみるという方法です。見損なえば痛い目にあいます。続けてゆくなら、たくさんの失敗の体験と成功の体験によって精度は高くなってゆきます。
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。——(12,13)
ここにクリスチャンは一人で生きることができないことが明らかにされています。誰の助けも借りずに一人で生きられるようになることがクリスチャンの成長ではありません。むしろ、互いに組み合わされて、励まし合い助け合うことが喜んで出来るようになる事がクリスチャンの成長なのです。ある人は助けてもらうのに、助ける事は苦手です。ある人は助ける事が出来るのに、素直に助けを求める事が苦手です。教会には学校のような機能もあれば、病院のような機能もありますが、本質は一つの体であり、一つの家族です。励まさなくてもいい人も、励まされることを必要としない人もいません。「励まし」を、「慰め」や「助け」に言葉を変えても同じ事がいえるのです。
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。——(14)
今、こうして何よりも礼拝することを大切に思ってここに来ている皆さんにとっては、当然のこととして感じられるかもしれません。きっと、「私は最初の確信を持ち続けています」と自信を持って言えるのでしょう。しかしその自信が揺らいだことがきっとあったはずです。自信は揺らぐのです。確信を保つために必要なことはしっかりと主の身体に連なっていることです。私たちは自分の満足のために、例えばシェープアップのためにスタジオに行くように、自分の知識を得るためにクラスを取るように、自分内面を鍛えるために礼拝に来るのではありません。礼拝は自分自身を神様に献げるためにあるのです。祝福はこの献身の結果です。確信もまたこの献身に支えられているのです。
メッセージのポイント
苦難の時、問題がある時にこそ、神様の語りかけに耳をかたむけるべきなのに、そのような時であっても心の耳を閉ざしてしまう傾向が私たちにはあるのです。誰でも、神様はこう願っておられたのに、自分はそれに従えずにあとから後悔したという経験を持っています。しかし、それでも神様は忍耐強く、私たちに語りかけることをおやめにはなりません。祝福と平安の内を歩み続けることができるように、神様の語りかけに注意深く耳を傾け、互いに励まし合いながら、最初の確信を持ち続けましょう。
話し合いのためのヒント
1) 荒野でどのような反抗が見られましたか?
2) 聖霊はどのように私たちの心に語りかけてくださるのですか?