February 27th, 2011 Vol.18 No.9

あなたの心は安らかですか? (ヘブライ人への手紙4:1-16)

A あなたの心に安らぎのない理由

1) 世界は安息の場所として造られている (1-4)

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。

今日は、ユアチャーチの今年の聖書の言葉とした「大胆に恵みの座に近づこう」の根拠になる部分についてお話しします。このことをお話しするためには聖書の最初の部分から始めなければなりません。神様が天地を創造された物語です。6日目までは、「夕べがあり朝があった第何の日である。」という言葉で閉じられていますが、七日目については閉じる言葉が書かれていません。このことが意味しているのは、今は神様の業は完成しているということと、神様と神様に従うものにとっては安息に時であるということです。今でも入りたいと願うなら神様の安息にはいることができるのです。あなたの心は安らかですか?あなたが心安らかに生きたいと願うなら、その願いは神様に求めるべきです。一時的な気休めなら、いろいろなものが満たしてくれますが、どのようなことがあっても変わることのない安らぎは、神様だけが与えてくれるものです。永遠の安らぎです。だから、人の生き死にさえ動じないのです。

 

2) 理想の世界と現実のギャップ(5-11)

そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。

この世界が造られてからずっと、神様は様々な方法で語りかけられてきました。しかし、アダムとエヴァから始まり、出エジプトの時も、ダビデの時代も、そして最後のチャンスとして与えられているイエス様の時代の最初の頃から今に至るまで、一度は聞いたのに関わらず、背を向けて安息を得られない人が沢山います。 皆さんはいかがですか?安息、安心の中におかれていると感じられますか?おそらくクリスチャンは神様の安息に中に置かれていると信じつつも、自分の周辺を含めて世界の全体が、心休まる場所ではないと感じているのだと思います。聖書はそのような状況の中でも心に安らぎを与えると教えています。神様の安息の中にいるという安らぎです。私はまだ神様を信じられなかったとき、社会を安息の場にするのではなく、安息がなくても、心の安らぎを与えるというのは、現実から逃げ出すことにならないかと思い。宗教は現実を忘れさせる麻薬のような有害なものだと考えていました。しかし社会が豊かでも、それで心に安らぎが与えられるわけではないというのが現実です。むしろ、まだ完成してはいませんが、神様と共にいる安らぎを知った人々が、社会の安らぎを作り始めているのです。私は社会が平和であることを望みましたが、そのためには社会を作り変える前に、自分の心が造り変えられなければならないと知って、神様を信じようと思ったのです。誰かを幸せにしたいと願うなら、あなた自身が、何があっても揺るぐことのない幸せを知らなければなりません。しかしそれは自分で作り出すことも、誰かから買うこともできません。それが出来るのは、人となられた神、私たちの聞き従わなかったという罪を引き受け、苦しまれ十字架にかかったイエス・キリストだけです。彼が、すべての人にとって安らぎの原点なのです。

 

B 安らぎを得るためになすべきこと

1) 神様の言葉によって支えられる (12,13)

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

イエス様が安らぎの原点だとしても、まだ現実の問題は残ります。この手紙の時代と同様に、今でも信じていたのに安息を実感できず、不安が私たちを襲うということが起こるからです。思い違いをしやすいのですが、イエス様に従う者になったということは、強くなった、立派になったということではありません。私たちの信頼する神の言葉が生きていて、強く、鋭いので私たちは強いのです。神様の言葉を聞くこと、分かち合うこと、行うことを通して私たちは強いのです。聞き、分かち合い、行うために教会は存在しています。イエス様が度々私たちに、ご自身の生きた枝となることを勧められたのは、目に見えるキリストの体にしっかりとつながり、養われ、役割をはたすことで、クリスチャンの存在は支えられているからです。

 

2) だから信頼してもっとイエス様に近づこう(14-16)

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

私たちはみな、もっと大胆に恵みの座に近づこう、と勧められています。もっと近づく事ができるのです。もっと親しくなれるのです。ある人はもっと多くの聖書研究をといい、ある人はもっと多くの祈りをといいます。私はこう勧めたいです。もっと熱心な礼拝を、もっと親密な交わりを。聖書を学ぶことも祈ることも恵みの座に私たちを近づける大切なものです。しかしそれは量とか費やす時間の問題ではないのです。むしろ足りないのは心の熱心の部分です。ですから多くの礼拝を、多くの交わりをではなく、もっと熱心な礼拝、もっと親密な交わりをささげて、もっと大胆に恵みの座に近づきましょう。

 

メッセージのポイント
神様はこの世界を良いものとしてお作りになりました。心安らいで生きることのできるところであったはずだったのです。それなのにこの世界は、人々が自分の命を絶ってしまうほどに、殺し合ってしまうほどに、絶望や不安、憎しみが存在しています。その理由は簡単です。それは、私たちが聴くべき言葉を聞こうとしないからです。聴くべき言葉は常に人類と共にあったのです。チャンスは与えられていました。イエス様が来てくださったことによって、今はもっとはっきりと語られ、現されています。神様を信頼し、その言葉を頼りに歩むなら、安らかの道を歩むことができます。それが完全な状態として与えられるのは、この世での歩みを終える時ですが、信じるものの心にはすでに神の国の安息が与えられているのです。

話し合いのためのヒント
1) 安息とは何ですか?
2) どうしたら確かな心の安らぎが得られますか?