March 6th, 2011 Vol.18 No.10

あなたは何歳? (ヘブライ人への手紙5:11-6:3)

A. もっと成長していてもいいかも?(5:11-14)

1) 神の言葉の初歩をマスターする (11-13)

このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。(11) 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。(12) 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。(13)

この手紙の書き手は、読んでいるヘブライ人の教会にとって先生に当たる人です。「このこと」と最初に言っている内容は、直前のイエス・キリストをメルキゼデクという旧約聖書に出てくる人物との類比で説明している部分を指しています。シリーズで読んでいますが、この部分は先週取り上げてはいません。詳しく知りたい人は、ウエッブサイトから1月2日のメッセージの音声かテキストで確認して下さい。今日の個所は前回までのややこしい部分を一旦止めて、とても基本的な話をしています。先週までお話ししていても皆さんの頭の上に?が浮かんでいることがあって心配だったのですが、今日の話は旧約聖書に親しんでいなくても大丈夫です。 筆者は、ヘブライ人たちの信仰の成長が見られないことにフラストレーションを感じています。かなりの期間、神の言を学んできたにもかかわらず信仰の面では幼児の域を脱していないからです。もう神の言を人に教えてもいいはずなのに、信仰の初歩を誰かに教えてもらわなければならないほどだったからです。神の言を食べ物に例えているのは旧約聖書からの伝統です。イエス様も神の言葉について申命記8:3をひいて悪魔の試みに対抗なさいました。「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ、ルカ4:4) 筆者は、ヘブライ人たちが大人の食べ物のように、食べ辛いけれど実生活に必要な栄養、神様の知恵を身につけて、その社会の中で神様の正義を実際に行なってほしいと願っているのです。もちろん最初から、そのような栄養を神の言から摂取することはできません。最初はミルク、離乳食のように消化に良い、だれにでも分かりやすい基本的な栄養が必要です。これらの基本的栄養が成長を促し、やがて硬い食べ物でも消化できるようになるのです。聖書の不思議なところは同じ箇所でも、その人の信仰の成長具合にあった栄養をいただけるということです。福音書が子どもの食物で預言の書が大人の食べ物というわけではありません。 では大人の食べ物とは何を指すのでしょうか?筆者は『義の言葉』という表現を手がかりとして示してくれています。

 

2)善悪を見分ける感覚を身につける

固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。(14)

固い食物とは経験によって訓練された一人前の大人にならないと、消化できない固いい食べ物に例えられる『義の言葉』とあることからわかるように、この先は体験して得られた感覚なしには、受け取れないという意味で固い食物なのです。善悪を見分ける感覚がもっと鋭くなり、神様の正しさを行う人となるためには、神の言葉とクリスチャンとしての実生活での経験の両方が必要だということです。だからいくら聖書を熱心に読んでも、それだけでは信仰の成長はないのです。

 

B 基本から実践へ (6:1-3)

だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。(1,2) 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。(3)

1) 教室での学び

時々、ユアチャーチでは聖書研究会はいつやっていますかと聞かれますが、ユアチャーチには聖書研究会という集まりはありません。聖書と簡単な解説書で自習できる以上の学びのクラスが必要であるとは考えないからです。ここに書かれている基本的な学びは、ユアチャーチではニューライフクラスで学べます。聖書研究会でもニューライフクラスでも、知識は増えるかもしれませんが成長はできません。時々、必要に応じて開く、ワーシップ、癒しのミニストリー、夫婦関係、子育てなどのセミナーなどを行うことはありますが、それらも生活の中での成長を補強するものであって、そういったことをすること自体が教会の目的ではないのです。なぜなら成長は教室で学びではなく、実際の生活の中での学びで起こることだからです。これをO.J.Tと呼ばれる学びです。

 

2) 実習 (On-the-Job Training)

私の皆さんへの願いは、筆者のヘブライ人への願いと同じです。「ニューライフクラスを終了したら、もう教室から出て実習を初めてください。もう教室で教えることは何もありません」ということです。天国に帰ってイエス様に「あなたは地上で何を一番熱心にしてきましたか?」と問われるとしたら、イエス様は「はい、聖書勉強だけは誰よりも熱心にしてきました」という答えを期待していると思いますか?イエス様はそれよりもむしろ「できるだけ愛そうとしました。あまりうまくいったとは思えませんけれど」という答えを期待しておられるのではないでしょうか? 教室を出たら、どこに行くのでしょう。それは教会の中でもあり、外でもあります。教会の中は互いに仕え合うという実践の場で、外はあなたが神様に派遣された場です。私達はその両方で経験による成長することが出来るのです。同じ実習と言っても、教会の中のほうが安心して学べる場所ではあります。うまく出来るかは別としても、愛し合い、仕え合い、赦し合うことを尊い理想として共有しているところだからです。外で失敗したり、傷ついた経験をした人でも、ゆっくりやり直して、また出てゆくことが出来るようになるところなのです。私たちはまた、教会という交わりの外にいる時でもつながっていて、互いに支え合っています。目に見えるその場所にはあなた一人しかいなくても、キリストの体の一部であるユアチャーチのサポートはあなたを支えているのです。何が起こってもすぐに祈りをリクエストできる、話を聞いてもらえる、具体的な助けを要請できる。そのために一つのミニチャーチのメンバーになってほしいのです。

 

メッセージのポイント
キリスト教の教理を理解していることは大変重要です。しかし、教理を深く知ることが目的ではありません。目的は、成熟して神の義を行う人になることです。それはイエス様の救いを理解し、確信した上で、それを実生活の中に活かし、遣わされているところで、物事の善悪を見極め、悪を排し善を行うことです。成長の度合いにあった霊的栄養をいただいてさらに成長させていただきましょう。

話し合いのためのヒント
1) 魂の糧としての乳あるいは固い食べ物とはとはどのようなことを指しますか?
2) 私たちにはどのような成熟が期待されているのでしょうか?