March 20th, 2011 Vol.18 No.12

信仰と忍耐とによって約束されたものを受け継ぐ (ヘブライ人への手紙 6:4-12)

A 最悪のシナリオ

1) 過ちを犯してしまうことと、はっきり背を向ける事とは違う (4-6)

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。

自分の欲望に負けて、神様の喜ばないことをしてしまうことが私達にはあります。ここに書かれていることは、クリスチャンになってから犯した罪は、二度と赦されることはないといっているわけではありません。そうであれば主の祈りは無意味なものとなってしまいます。ここで言われていることは、クリスチャンに与えられる多くの恵みを十分に体験したにもかかわらず、背教する者のことを指しています。この手紙のコンテキストでいえば、イエス様に長い間従って歩んでいたのに、救い主イエス様を否定しユダヤ教に戻ってしまう人のことです。イエス様を裏切った弟子のユダのように決してゆるされることはないのです。しかしユダヤ教の背景を持たない私達にも関係ないことではありません。大変熱心な信仰を持った人でも、それを失ってしまうことがあるのです。本当には理解していなかった、とか、ふりをしていたというのではなく、本当に正しく、熱心な信仰の歩みをしていた人でも、イエス様に背く可能性があるのです。人の内面までは分かりませんから、歴史上の人物で誰がそうだったかと断定するわけにはいきませんが、誰でもそのような恐ろしい選択をしてしまう可能性を持っているということです。

 

2) 生えた茨やあざみをどう扱うかが分かれ道 (7,8)

土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

ここで筆者は、そのような悪い選択を茨やあざみが生じた畑にたとえて、私達に良い知恵を与えてくれています。私達の心はよく耕された農地のように収穫を期待できます。しかし、福音がよく根付いて魂の収穫を期待できるような、よく耕された土地は雑草にとっても成長するのに好都合なのです。それらはできるだけ小さいうちに取り除いておくべきです。そのためには、日々自分の心を探っていただくことです。神様とふたりだけの時間をもち、神様に向き合うのです。それは個人的にささげる礼拝です。また誰かに見つけてもらうことも大切です。これはミニチャーチを始めとする交わりの中で出来ることです。自分では見過ごしがちな小さな芽を見つけてもらえれば、小さいうちに抜いてしまうことができます。これらのことも、礼拝と交わりを大切にすべき理由の一つです。

 

B あなたなら大丈夫!

1) 神様はあなたの愛を忘れない (9,10)

しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

ここまで人生の最悪の選択をしないように書いてきた筆者ですが、神様の働きを続け、互いに仕え合うことによって、良い実を実らせる可能性のほうがずっと大きいことを伝えてヘブライ人たちを励ましています。神様は、あなたの働きや、人々に表した愛を覚えていてくださるのです。 このことについて、イエス様ご自身がこのようにおっしゃっています。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 (マタイ25:31-40)

愛を喜んで見返りなしに行い続けることが、神様から期待されている私達の歩みです。偉大なことをする必要はない、人から賞賛される必要もない、人として当然の生き方です。ところが一旦罪の思いにとらわれ、利己的になると、私達の欲望は際限なくなります。そして、何とかして思い返さなければ、良心は麻痺して、やがて遠心力に負けて軌道から外れてゆく惑星のように、神様から遠ざかってしまうでしょう。

 

2) 信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ごう。(11,12)

わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです

怠けず熱心に、信仰と忍耐を持って、神様に仕え、互いに仕え合い、世界につかえ続けることが、希望を持ち続けることのできるポイントです。仕えること、仕え合うことは決して簡単ではないのです。怠けず熱心に、信仰と忍耐を持っていなければできないのです。そしてそれらはどれ一つとってみても、私達のうちには乏しいものです。聖霊の助けが必要です。聖霊に願い求め、常に満たしていただき、神様の子供として生涯を歩み通しましょう。地上での歩みを終えたとき、私たちは約束されたものを受け継ぐ者としてイエス様のもとに帰ることができるのです。

 

メッセージのポイント
イエス様に従って歩むことは喜びであり楽しみです。しかし気楽なことではありません。油断していれば足元をすくわれる危険もあります。茨やあざみのような背信が心の中に生まれたら出来るだけ早く取り除いてしまわなければ手遅れになってしまいます。神様は私たちの表面的な言葉や行いではなく、心を見ておられるのです。大きなこと、目立つことはできなくても、なんども失敗しても、なかなかうまく行かなくても神様を信頼して、忍耐してイエス様に従って歩む人が神の国の民なのです。

話し合いのためのヒント
1) ここでいう堕落とはどのようなことを指していますか?
2) 堕落しないために出来ることは何でしょう?