March 27th, 2011 Vol.18 No.13

アブラハムの子孫 (ヘブライ人への手紙 6:13-20、創世記22:1-19、マタイ10:37-39)

この箇所は、この神様の言葉のオリジナルの出来事を知らなければ正しく理解することができません。そこで始めに創世記22:1-9を読んでから、お話しすることにします。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:16-19)

やっと生まれた一人息子のイサクをアブラハムがどのように育てるのか、神様は注目していました。どちらかというと、年老いて、初めて与えられた子供は、孫のように大切に育てられるでしょう。子供中心の家庭になります。神様中心の家庭ではなくなります。それは子どもが一家の偶像になってしまうということです。私達の信仰の父アブラハムは、神様にテストされました。

A アブラハムの子孫は

1) 聞き従う(13,14)

神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。(13,14)

子供に聞き従うよりも、神様に聞き従うほうが子供のためなのです。皆さんが子どもをどう育てるかによって、それは孫や、孫の子の幸せにまで影響してくるものです。しかし、神様に聞き従おうとするならば、目先の利益にはならない事、困難な道を選ぶ事になる場合もあるのです。神様はあなたの欲望に従って、お金を入れさえすれば体に良くない甘い飲み物をだしてくれる自動販売機ではありません。しかしアブラハムは知っていました。自分には到底理解出来ないことであっても、神様に聞き従うことが最善の道であるということを。 イエス様はこの真理を次のように表現されました

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10:37-39)

神様のアブラハムに対する言葉もそうなのですが、イエスさまのこの言葉も誤解されやすい言葉です。キリスト教は息子、娘どころか両親を愛さなくて良いのか?と抗議されたことがあります。人を憎んで私(イエス)を愛しなさいなんて、危ないカルトじゃないか?という疑問です。実際これらの言葉を文脈から切り離して教え、仕上げに「私に仕えることが神様に仕えることです。私の権威は神様の権威だから従わなくては祝福されません。呪われます。」と言って脅かす自称牧師が神様の名を汚すようなことをするのです。だから注意深く読まなければなりません。まず「私ではなく」ではなくて「私より」です。人を愛さないでよいなどとはどこにも書いてありません。愛は好きだという感情ではありません。自分を与えるという意思です。聞き従うことは、愛の一つの表現です。子供の話すことをじっくりと聞いてあげることは、とても大切な事です。しかしそれは何でも要求に応えることとは違います。子供であれ、大人であれ、そのリクエストに答えないほうがその人のためであることが多いのです。リクエストに応えて間違いのないのは、すべてを創られた神様以外にはありません。ですからアブラハムのように神様を信頼し、聞き従いましょう。 イエス様の言葉は逆説に満ちています。神様を誰よりも愛する人が、誰よりも人を愛することができます。自分であれ愛する家族であれ人の命が自分たちのものではなく神様のものだと知っている者が永遠の命を持つのです。

2) 根気よく待つ(15)

こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。(15)

何にでもスピードが求められる時代です。すぐに希望が叶うのが良いサービスなのです。そうしてわたしたちの「根気よく待つ」能力はさらに衰えてきているようです。大抵の場合、私達の求めるタイミングのほうが早くて、神様のタイミングは遅いようです。この国の理想的な姿を思い描き、生涯を政治にかけてもそれが実現するのは、何代も先かもしれません。レオナルド・ダ・ビンチが人の力で飛ぶ飛行機をスケッチしてから、飛行機が発明されるまで400年かかったのです。バルセロナ教会堂のサグラダファミリアは1882年に着工されて、完成まであと15年くらいかかるそうです。永遠を知らない者は、自分の寿命のスパンでしかものが見られません。けれども神様に信頼をおく人は、神の国がすぐに完成しなくてもがっかりしません。神様の壮大な計画の中で、自分の働きがあり、その自分に必要なものは、完璧なタイミングで神様が与えてくださると信じているからです。

B アブラハムの子孫の希望の根拠

1) 神様が誓って、約束された(16-18)

そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。(16-18)

日本語だと音が同じなので、聖書の新約、旧約の約を訳と間違って思い込んでいる人がいますが、約は約束の約です。古い約束と新しい約束ということです。それは神様と私達の間の約束です。神様が人に祝福を約束して下さるだけでなく、それを破らないという誓いさえなさったのです。しかし普通、誓うときには、自分より偉大な者のかけて誓うのですが、神様にはその上の者は存在しないので自分にかけて誓ったのです。約束と誓いというこの二つの不変の事柄が、この世とは異なる価値観で歩み続けるという困難を可能にするのです。それもやっとの思いで、重い足をひきずるように、苦しそうな顔をしてではなく、明るく軽やかに歩めるのです。それは私達が恵みの確かさを知っているからです。まだこの約束がピンと来ない人は、あとでメンバーの誰かに聞いてみてください。私達もまたこの筆者と同じように、「この事柄に関して神様が偽ることは決してありません。」と心から言えるのです。

2) しっかりとつながっていて、さらに近づくことが出来る(19,20)

わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。(19,20)

私達には永遠の希望があります。この希望があるから、私達のこの世界での素敵な事々は、実現されなくても、取り去られてもいいのです。私達はあらゆるものを失う可能性を持っています。富も健康も名誉も大切な人々も失う時があるのです。死ぬときに、この世界だけしか知らない人にとって、死はすべてを失うことを意味するのです。でも本当は、死でさえも私達から奪うことのできない最高の宝が神様から提供されているのです。神様と共にいる永遠の命、究極の繁栄と祝福。イエス様はこの宝を手渡すために、世界に来られ十字架にかかられました。あなたも自分の十字架を背負ってイエス様に従いましょう。イエス様のように自分の命を惜しまず与えましょう。そうすれば、あなたはやがて朽ち果てる地上の宝ではなく、最高の宝:永遠の命を受け取ることになるのです。

メッセージのポイント
信仰においてクリスチャンはアブラハムの子孫です。神様は私たち一人一人に素晴らしい計画をお持ちですが、その計画が実現するためには神様によく聞き従い、忍耐して待たなければなりません。中には、その実現を疑い、待ちきれずに道を逸れてしまう人もいます。しかし、わたしたちはイエス様という最高の人生の道案内とともに、神様ご自身が誓われた約束を信じて歩み続けましょう。

話し合いのためのヒント
1) 二つの不変の事柄とは何ですか?
2) 私たちはどのような希望を持っているのですか?