April 10th, 2011 Vol.18 No.15

イエス・キリストだけが… (ヘブライ人への手紙 7:20-28)

A 永遠の大祭司

1)誓いによって祭司となられた(20-22)

また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。(20-22)

神様はイスラエルの祭司制度を認められましたが、それは民と神様の間を取り持つには完全なものではありませんでした。だから神様は民の祭司に対して、誓うという形でその地位を保証してはいないのです。ところがイエス様については、神様ご自身が誓って、彼を永遠の祭司と定めたのです。 人間の良い考え以上に良いものを用意される神様です。人間同士の誓いも、人間の神様に対する誓いも、誓ったからといって守れるものではありません。イエス様は一切誓ってはならないとおっしゃったのです(マタイ5:34)。当時は、<神様>にではなく<天とか地とかエルサレムとか頭>にかけてなされた誓いなら破ってもいい、という変な理屈が通っていたので、そのような表面的な言葉や行いにこだわる律法主義に対して、「何に対してであれ、守れない、守るつもりがないなら誓うな」とおっしゃったのです。イエス様は、裁判所の宣誓や高校野球の選手宣誓、結婚の誓いを禁止しているのではありません。それは誠実に行いますという表現であり、誠実な願いです。神様はその近いを果すために力を貸してくださいます。実際には、私達には誓いを果たしたいという願いはあっても、力が及ばず、結果的に誓を破ってしまうことも起こるわけです。しかし神様は誓いを破る方ではありません。神様が誓ったなら、そのことは確実に果たされます。だからイエスキリストだけが神様が保証された、神様と私達との接点なのです。

 

2) 永遠に祭司 (23,24)

また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。(23,24)

2000年前に生きた人、イエス様だけがなぜ21世紀に生きている私から神様への道なのか?その答えがここにあります。来週は棕櫚の日曜から始まる受難週、そしてその次の日曜は復活祭、イースターです。教会のお祭りではクリスマスの方がよく知られていますが、イエス様を信じる信仰の根拠としては、より重要な意味を持った日です。イエス様は一人の人として処刑され確かに死んで葬られましたが、三日目によみがえられたと聖書は証言しています。複数の人々が実際に復活されたイエス様に触れ確かめました。そして、誰もイエス様の遺体を誰も発見できなかったのです。もし本当に遺体があったのであれば、当時の権力者や宗教指導者の強大な力に対して、弟子たちが意図的に隠すことは不可能です。墓自体が彼らの監視下にあったのです。また、彼らは命を奪われることになってもその証言を変えようとはしませんでした。その信仰は今にまで受け継がれています。それが復活の根拠です。イエス様は永遠に大祭司であり、私たちの主であり続けるのです。

 

B 完全な救い主

1) 完全に救う方(25,26)

それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。(25,26)

「執り成す」という言葉は日常的にはあまり使われませんが、対立する二者の間に立って、事態が好転するように調停する、仲介するという意味の言葉です。聖書のメッセージはシンプルです。この方こそあなたの必要な方なのです。十字架にかかり、死んで葬られ、よみがえられて今も生きているイエス・キリストだけが神様とあなたとの間を調停し、神様との永遠の平和を実現して下さるからです。困難、恐れ、問題、不安、不幸はすべて、神様との関係が損なわれているところから来ているのです。様々な問題。思い煩いから本当に救われたいなら、完全な救い主を信じて神様との関係を回復する以外に道はありません。

 

2) 十字架:ただ一度献げられたいけにえ (27,28)

この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。(27,28)

ただ一度献げられた完全ないけにえ、それがあの十字架の出来事です。神様との関係は、人がそれをはっきり解消したいと考えない限り、無効にはなりません。本当の神様は、私達が様々な宗教的儀式や供え物によってコントロールできるようなものではないのです。何かを願ってなんども足を運び献金することによって、良いものを与えてくれるような取引相手ではありません。神様が願われるのは、あなた自身をイエス様に従う生き方を選択するという仕方で自分自身を献げることです。神様の意思に従って歩むという捧げ物です。それが自分の十字架を負ってイエス様に従うという生き方です。月曜から土曜までは自分の好きなように歩んで、日曜日だけ、「私は心から礼拝し、賛美します、先週の罪を悔い改めます、どうぞ今週はもっと祝福して下さい。」という思いでここにいるなら、それでは神様を他の神々と同じような取引相手とみなしていることになってしまいます。 では私達はどのような理由でここにいるのでしょうか? それは、日々十字架を担って歩んでいる、その歩みの中で主がしてくださったことを感謝し、主と共に喜ぶためです。また疲れてしまった魂に新しい力をいただくためでもあります。

 

メッセージのポイント
思い通りにならない人生、確かに頼れる者のいない人生、偶然の連続でしかない人生。この国では多くの人が、そう考えています。また本当は頼りにならない木や石でできた偶像、宗教家を頼って生きている人もいます。本当に頼りになる方を頼っているのは、全人口の1%以下なのです。それも増えつつあるのではなく減り始めているとさえ言われています。けれども悲観することはありません。私たちには、イエス様を伝えたい人が沢山いるのです。誰に伝えようかと悩む必要はないのです。私達がここから外に出れば、目の前にいるほとんどの人は本当のイエス様を知りません。私たちは、役に立たない物を高価な値段で売りつけようとしているのではなく、だれにでも必要なのに、ほとんどの人が持っていない「福音」をただであげようとしているのです。希望を持って伝え続けましょう。

話し合いのためのヒント
1) この誓いは旧約聖書のどこに記されていますか?
2) 普通の祭司とイエス様との違いを上げてみましょう?