April 17th, 2011 Vol.18 No.16 しゅろの日曜日
私達もロバの子 マタイ21:1-11(マルコ11:1-11、ルカ19:28-36ヨハネ12:12-15), ゼカリヤ9:9
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。
ゼカリヤの預言から500年間ここに預言されているような王は登場することはりませんでした。しかし、あの棕櫚の日曜日にそれは成就したのです。その間に何人もの王たちがイスラエルの歴史に登場しては消え、民は栄えるどころか、国家としては破綻した状態になっていました。それはどこの国の歴史を見ても共通することです。どんなに賞賛される王であってもすべての国民を満足させることはできません。まして、すべての民に平和を与えることの出来る指導者は、歴史の中で一度も登場したことはありません。大抵の場合、ある国を栄えさせ、その国民に満足を与えた指導者は他国にとっては驚異でしかありませんでした。ある国の繁栄と平和は他の国の犠牲の上に成り立って来ました。つまり、限られた資源や領土を奪う戦いに優れたものが王として優秀だったのです。しかしここに期待をもって預言されている指導者は軍馬に載った戦争指導者ではありません。イエス様は、ろばに乗って入場してくる最初で最後の、すべての人にとっての本当の王なのです。
2) 他の王たちとは全く異なる方として
その王とは、神様に従う者、神様によって試練から救い出され勝利を得る者,にもかかわらず高ぶることのない者だというのです。イエスさまの受ける最大の試練が5日後に待っています。このエルサレム入城は目に見える人の作った王座に着き君臨することを意味してはいませんでした。それは自分の死を意味する入城でした。イエス様は十字架を避けようとはせず。弟子たちにも反撃を許しませんでした。この勝利と訳されている言葉は多くの英語の聖書では、「救いをもつ」と訳されていますが、もっと丁寧に言うなら「神様によって試練から救い出され勝利を得る」ということです。自分で戦って得る救いと勝利ではなく、神様に従順であることによって与えられる救いと勝利なのです。私達に与えられる勝利も同様です。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
ろばの子は、手を上げて私がイエス様を乗せたいと立候補したのではありません。私たちは多くの神々の中から、イエス様を選んだのではないのです。たった一人の神であるイエス様が選んでくれたのでなければ、私たちは神様を知ることはできなかったでしょう。私たちはが選んだのは、多くの選択肢の中からイエス様を選んだのではなく、イエス様の呼びかけに応えてついて行くという決心をしたのです。決心の前提にイエス様からの呼びかけがあったということです。この違いは大きいのです。神様は、あなたを用いたくて、選んだのです。それは、あなたが優れているからではありません。ここが社会の基準とは全く違うところです。神様は弱さを自覚し、神様に従うことによってのみ歩むことが出来るということを自覚している人を用いるのです。
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
イエス様はまだ誰も乗せたことのないロバをわざわざ選びました。イエス様の働きをするのに、「自分にはこれができます」「これをさせてください」というプライドは邪魔でしかありません。イエス様がしなさいということなら、経験があろうとなかろうと何でも喜んでやってみよう、自分には足りなくても、神様が必要な知恵も力も与えてくださると考え、信頼してついて行く人を用いてくださいます。私達が選ばれ、周りの人達より少し早くクリスチャンとなったのは、イエス様があなたを、共に働くものとして選んでくださったからです。私達の働きは、どのようなことであれ、このロバのようにイエス様をお乗せして歩くことなのです。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
イエス様をお乗せしていること。それは私達の大きな喜ばしい特権です。イエス様は効率を求めて、私達を用いるのではありません。だから成績を気にする必要はありません。あなたの人生をあなたとともに歩みたい、と願われて、一緒に行かないかと誘ってくださったのです。イエス様と歩む人にはおそれがありません。持っていないものを得ようと無理をする必要もなく、持っているものを失うおそれもいりません。目に見えるものすべては、自分の命でさえやがて失われるものです。それを阻止することは誰にもできません。しかし、イエス様と共にいることは、死でさえもあなたから奪うことはできないのです。聖書はそのことを「永遠の命」と呼びます。まだあなたがイエス・キリストを神、救い主と信じていないなら、どうか今日、イエス・キリストを信じ「永遠の命」を手に入れてください。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
イエス様が子ろばを用いられたことは、私達にとって大きな慰めです。イエス様は社会の評価とは違う目で人を見られます。その結果、私達は選ばれてイエス様を乗せたろばの子のように歩む道を教えられました。それは、小さくても、弱くても、愚かでも、いやむしろそうであるからこそ神様に用いられやすい者として歩めます。そのことを知っているので、私たちは賞賛が自分に向けられないことでがっかりしません。私たちはイエス様が讃えられることを喜び、そのイエス様をお乗せしていることを誇るのです。
メッセージのポイント
イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入ったことは、旧約聖書に預言されていた真の王に相応しいことでした。そのような方は前にも後にも表れることはありませんでした。普通、王であるなら財力、武力を誇り立派な馬に乗ることを誇るのです。しかしイエス様は、そのようなものが人の誇るべきものではないことを知っておられました。イエス様が子ろばを用いられたことは、私達にとって大きな慰めです。イエス様は社会の評価とは違う目で人を見られます。その結果、私達は選ばれてイエス様を乗せたろばの子のように歩む道を教えられました。それは、小さくても、弱くても、愚かでも、いやむしろそうであるからこそ神様に用いられやすい者として歩めます。そのことを知っているので、私たちは賞賛が自分に向けられないことでがっかりしません。私たちはイエス様が讃えられることを喜び、そのイエス様をお乗せしていることを誇るのです。
話し合いのヒント
1) なぜイエス様は立派な馬ではなく、子ろばに乗ってエルサレムに入られたのですか?
2) なぜ私たちは、自分をろばの子に例えることができるのでしょうか?