May 1st, 2011 Vol.18 No.18
天の権威者 ヘブライ人への手紙8:1-6
今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。(1-4)
権威とは人を従わせる有形無形の力のことです。親の権威、とか先生の権威、あるいは政治的権威といったことが考えられます。権威はピラミッド型の構造を持っていますが、その頂点はどのような権威なのでしょうか?大統領の権威でしょうか?総理大臣の権威でしょうか?クリスチャンになる前、私はそのような地上の権威に対して反抗することが私のするべきことだと思っていました。クリスチャンになって、それが誤りであることに気付きました。それは権威に忠実でなければならないと思い返したのではありません。そうではなく、それより上の権威があることを知らなかった、というのが私の誤りだったのです。私たちは眼に見える地上に権威に対してどういう態度を取るべきかを考えますが、実はその背後に眼に見えない権威があって、その権威に対してどういう態度を取るべきなのか、ということがもっと重要な問題なのです。神様の権威を知っていたはずのイスラエルの民も、長い時間の経過の中でいつの間にか地上の権威の在り方に心を奪われ、真の権威に従うことを忘れてしまっていました。手紙の書き手は、この部分の要点として、「イエス・キリストは、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる。」と言って、注目すべき真の権威を指し示しています。この言葉は、イエス様ご自身の言葉の引用です。 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(ルカ22:66-69) イエス様の権威は不思議なものです。ふつう考えられる権威というのは最初に紹介した辞書の定義のように、人を従わせ、人に仕えさせるものです。しかし私達が主と従うイエス様は「仕える方」だと筆者が書いたとおりです。ただ天の神様の隣のNo.2の席に座って人間にあれこれさせているのではなく、むしろ、私達を神様と結びつけてくださるという働きを今でも続けていてくださるのです。
この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。(5)
筆者はここで出エジプト記を引用してこう言っています。元の言葉を確認しておきましょう 「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。」(出エジプト 25:40) 地上の権威は天の権威の写しだというのです。言うまでもなく天の権威が真の権威です。だから目に見える地上の権威は、できるだけ正確に天の権威を反映させたものにしなければいけません。モーセは注意深く、それを人々に伝えたのです。けれどもやがて地上の権威は天の権威とは違うものになっていったのです。このことは現在のキリスト教国と呼ばれる国でも起こることです。天の権威を見あげなければ、どこにいようと正しく歩むことはできません。神様を信じない国であればなおさらです。かつてこの国がそうであったように、国の最高権威者は神であるとして、人々を神様から遠ざけています。神様の権威を写した権威は、政府ではなく、キリストの体である教会です。もちろん教会の権威は人を支配する権威ではなく、イエス様と同じように、人々が神様との関係を回復できるように「仕える」権威です 。
しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。(6)
旧約聖書は古い契約の書、新約聖書は新しい契約の書です。よく聞かれることは、なぜキリスト教は新約だけではなく旧約も聖書としているのですか?という疑問です。古い契約なら、なくても良いのではという疑問です。しかし新しい契約が必要になったのは、古い契約に欠陥があったからではありません。人が守ることができなかったので、契約の恩恵に預かることができなかったのです。民の代表だったモーセは十戒を基本とする契約を神様に頂きました。しかし人は、神様に従うことを喜んで、それに心から従うことをせず。心は自分の欲望に仕え、形だけで契約を守ろうとしたのです。当時の人が知っていた律法とは、旧約聖書の本文だけではなく、言い伝えによって伝えられた律法や、その解説書のようなものまでが含まれていました。私たちは、旧約の一字一句、例えば食べ物の規定を守らなければならないとは考えていません。しかし、神様がご自身に似たものとして創造して下さったことや、夫婦という単位を大切にすべきこと、十戒という人の生き方の大切な指針、また預言として記された救い主のことが書かれている旧約聖書の言葉が今でも有効であることを知っています。新しい契約はイエス様の十字架の死と復活として、古い契約を守りきれなかった私達に与えられた、最後のチャンスとして提示されたのです。
有限の存在である人が神になることはできません。しかし神様が人の姿をとってきてくださったのが、イエス・キリストです。この手紙で繰り返し教えられてきたように、十字架という、たった一度の命がけの手続きによって、私達と神様との関係は決定的に変わりました。失っていた関係を回復することができたのです。しかしもっと正確に言うなら、神様の側からの手続きは終了したということです。イエス様が神様の署名入りの契約書を持って訪ねて下さいました。しかし、あなたがサインしなければ、この契約はあなたにとっては有効とはならないということです。
メッセージのポイント
従うにしても、反抗するにしても、私たちは目に見える地上の権威に目を向けがちです。しかし地上の権威は天の権威の写しであり影です。本当に重要なのは天の権威に対してどのような態度を取るのかということです。天の権威に目を向けないということは契約相手、良い関係を保つべき相手を間違っているという事です。それでは、正しく歩むことができないのも無理ありません。
話し合いのためのヒント
1) 幕屋とは何ですか?
2) 更にまさった契約とはどのような契約ですか?