May 15th, 2011 Vol.18 No.20

あなたの良心が元気になるために ヘブライ人への手紙9:1-22

A 生きている神様を礼拝しよう

1) B.C. の礼拝 (1-10)

さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。(1-10)

イエス様の来られる前の、すなわち旧約聖書の礼拝について私たちはその詳細を知る必要はありません。しかしそれらがどのような意味を持っていたのか、イエス様やその弟子たちが、それらのことをどう意味付けていたのかを知ることは、私達の信仰の理解を深めてくれるものです。例えば新約聖書には礼拝の規定といったものが体系的には記されていませんが、人々は旧約聖書の礼拝から、その本質が「神様との近く親しい時、罪の赦しの時」であることを認め、そこからより純粋な礼拝を追求して今に至っているのです。モーセに率いられてエジプトを脱出して以来、神殿が設けられるまで、その場所は民の住居用のものとは異なる特別なテントでした。第一、第二とありますが二つのテントがあったのではなく一つのテントの中に、入ってすぐの聖所と呼ばれた間と垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる奥の間があったのです。聖所では、たとえば火を灯したり、消したりといった毎日なされる務めがありました。奥の間は大祭司が年に一度だけはいり、律法を破ってしまった過失を贖うために動物の血を献げました。しかしイエス様が完全な犠牲を捧げた結果、私たちは、そのままで神様の前に立てる、つまり至聖所に入れる者とされているのです。この手紙の時代、まだ聖所があり、祭司たちが規定に従って祭儀を行ない、それに連動して食物規定や行動規定を守るべきだとされていましたが。筆者は、それらがイエス様の来られる前までの臨時の措置だったと教えているのです。

 

2) A.D. の礼拝 (11-14)

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。(11-14)

およそ2000年前、イエス・キリストは歴史の中に登場します。信じないものにとっては、ひとりの偉人の誕生に過ぎませんでした。実際に彼と共に時を過ごし、言葉を聞いた者たちのなかにも、そのようにしか考えられなかった人々のほうが多かったのです。けれどもイエス・キリストの死が特別な意味を持っていたことは、旧約の預言からも、イエス様の言葉からも明らかなことでした。その死から三日目に起こったことを目撃した、数少ない人々の証言が世界を変えてしまったのです。あのイエスこそ真の神であり真の人、ご自身を犠牲として献げた、完全にして永遠の大祭司であることが、時には命がけで伝えられてきたのです。神様が私達を造られたときに備えられていた神様を思う良心は欲望と利己心に負けて、形だけの礼拝や偶像礼拝に向けられ死んだような状態に置かれていましたが、イエス・キリストを主と信じ、主と共に歩み始めるとき、私達の内の弱く、疲れ果てた良心は力を得ていきいきと働き始めるのです。その力の源は今私たちが心を込めてささげている礼拝です。

 

B 十字架の意味を知ろう

1) 死によって遺産を受け継ぐ (15-17)

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。(15-17)

教会のシンボルは十字架です。信仰を持たない人が十字架のアクセサリーをすると、クリスチャンがいう必要はありません。しかしチャンスがあれば教えてあげましょう。その意味を知るなら、受け入れてつけるか、拒絶して外すかの選択を求められることになります。十字架は死刑の印、私の罪はイエス様を殺したというサインです。ところがこの事実を認めるときに、その罪が赦されることも知るのです。ところで契約と訳されている言葉には遺言という意味があります。イエス様による新しい契約はイエス様が死んで初めて有効になったということで、この契約が遺言ともなっていることが私達にも分かります。それはクリスチャンに対する遺言です。永遠の財産を受け継ぐ権利がクリスチャンにはあるのです。最後の部分で「罪が赦される」ということをもう少し詳しく見てゆきましょう。

 

2) 血によって赦される (18-22)

だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。(18-22)

イスラエルの民は命じられたとおりに、傷のない動物を選んで犠牲を捧げてきましたが、その血の意味は知りませんでした。それがイエス様の十字架で初めて明らかになったのです。それまでの犠牲は、不完全なモデルだったのです。人となった神様ご自身が血を流され苦しまれるという犠牲を払って、背いた私達を赦すのです。 ある人は、聖書の信仰は信じるだけで救われる。それは安っぽい信仰ではないか?なにか立派で苦しい修行をして悟りを得るといった方が純粋なのではないかと考えます。しかし、聖書の求める信仰はもっと純粋なのです。純粋すぎて人の側からは近づくことができないほどの高みです。だから神様の方から来て手を差し伸べてくださるのです。あなたの神様に背いてきたという罪は神の子が血を流し死ななければならないほどに深刻なものです。しかしその贖いは2000年前になされたのです。利己心、欲望に振り回されながら生き続けるのか?神様によって強められた良心に従って新しく生きるのか?その選択はあなたにまかされています。

メッセージのポイント
私達の良心は、そのままでは大変無力です。それは心が神様から離れているからです。宗教は神様に近づくための人間の側からの努力です。礼拝はそのなかでも中心となる祭儀ですが、どのように厳粛な、あるいは霊的な雰囲気をつくっても、そこに神様が臨在されなければ、その礼拝では神様に近づくことはできず、良心を強くすることもできません。イエス・キリストは人となり来てくださった神様です。私達の信仰は、私達の一方的な宗教ではなく、むしろ神様の方から来てくださって招いてくださったことに対する応答です。その死によって私達に天の相続権を与え、その血によって、罪を赦し相続者の資格を与えてくださいました。私達の良心はイエス様の招きを受け入れ、真の礼拝者となることによって、完全なものとなってゆきます。

話し合いのためのヒント
1) キリストの死と血にはそれぞれどのような意味がありますか?
2) 十字架にはどのような意味がありますか?