May 22nd, 2011 Vol.18 No.21

主は葡萄の木、あなたは? ヨハネ15:1-17

A イエス・キリストに (1-7)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。 しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(1-7)

日本は、比較的貧富の差が大きくない、多くの人が自分を中流に位置すると見なす国でしたが、最近ではその差が広がり、感覚的には「勝ち組、負け組」の二極化が進み、多くの人が、自分の生活水準は低いと感じるようになっています。階級が固定してしまい、負け組にとっては、自分の努力ではどうにもならないのだ、とも感じられるようになっています。しかし聖書は、この社会のクラス分けにとらわれる必要がないことを教えてくれています。実は聖書も二つのクラスがあることを認めています。しかもそれらは、この社会に見られる貧富の差よりも大きな違いがあるのです。しかし、この世の負け組が、ほとんど勝ち組にはなれないのとは異なり、自分の決心次第で良いクラスにとどまることが出来るのです。聖書の教えるクラスの違いは、イエス様にに結ばれているか、離れているかの違いです。

 

1) 結ばれているなら良い実を収穫できる

イエス様はここでご自身をぶどうの木にたとえて分かりやすく説明してくださっています。幹に繋がっている枝には葉が繁り、花が咲き、実が実ります。それは、悔いのない幸せな、そして周りの人も幸せにする人生のことです。しかもその先には、肉体が滅びても変わらない永遠の命が約束されています。

 

2) 離れているなら実を結べずに枯れてしまう

ところが、切り離された枝は幹からは水分も何の養分も得られず、実を実らせることができないばかりか、やがて枯れてしまいます。人々は幸せになりたくて、いろいろなものを求めますが、どんなに多く手に入れても幸せにはなれません。本当の幸せは神様に結ばれていることだからです。

先々週、一人の友人を天国に送りました。火葬場に集まったまだイエス様とつながっていない多くの人々にイエス様のことを伝える話をしてくださいという、彼女の夫のリクエストで、次のような話をしました。 皆さんの中で彼女がかわいそう、神様は意地悪と思っている人がいるなら、彼女は全くそう思っていないということを知っていただきたいと思います。 むしろ彼女は、そのように思っているあなたを心配しています。 なぜなら、1) 彼女は、本当に信頼出来る方、自分を創り、守り、導いている神様を知っています。 2) 彼女は、自分の人生の目的を知っています。 3) 彼女は、地上の命が終わる時に神と共に歩んだ人が何処にゆくかを知っています。だから彼女は自分が幸せだと喜んでいます。 彼女も、そして彼女の夫も、もしあなたがこのイエスキリストだけが与えることの出来る喜びをまだ知らないなら、そのことが心配なのです。ただ道であり真理であり命であるイエス・キリストと共に歩むことによって得られるのです。どうかあなたも彼女の一番の親友イエス・キリストを知ってください。

どうかあなたもイエス・キリストに結ばれて、豊かな実を実らせる人生を送ってください。後半の部分では、イエスに繋がっているとは、実際どのような生き方を指しているのかが記されています。まず8-11節を読みましょう。

 

B 結ばれているとは (8-17)

1) 弟子として生きていること (8-11)

あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(8-11)

第一に、結ばれているとは弟子として生きるという事です。それはただイエス様をかみと信じているだけではなく、その言葉や行動を見習ってついて行くということを意味しています。ある人は、一度信じてバプテスマを受けたら、天国行きの切符を手に入れたと満足して、それ以上成長しようとはしません。それではイエス様のファンであっても弟子とはいえません。最初に読んだ部分に、神様に繋がっているなら、神様が手入れしてくださるとありました。手入れされることは気持ちがいいばかりではありません。子供の頃、私の両親は私の髪をさっぱりと整えるために理髪店に連れていきましたが、私は動くなと言われたり、痛かったり、くすぐったかったりするので大嫌いだったのです。弟子は、今までの自分の生活習慣やあり方を変えることを求められることがあるのです。イエス様の弟子たちがそうであったように、弟子として成長するという訓練は交わりの中でなされていきます。一人では成長できません。キリストにつながるということは、キリストの体である教会につながることです。そこで受ける訓練は一言で言うなら、愛しあうことです。12-15節を読みましょう

 

2) 愛し合っていること (12-15)

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(12-15)

イエス様に結ばれているということは抽象的なことではなく、とても具体的なことです。それは、眼に見えるキリストの体の一部であるということです。教会は、建物でも集会でもありません。そこに集う人々のことです。どのように結び合わされているのか?それは同じ教会に属しているということではなく、互いに愛し合っているという事で保証されているのです。先の部分で、愛しあうことが、一つの訓練だといったように、それは簡単なことではありません。自分の利己心やプライドが邪魔をするからです。そして、ある人は自分にはこの訓練が耐えられないと体に繋がっていることを諦めてしまいます。しかしそれは神様の意思ではありません。なぜなら、あなたがつながることを選んだだけではなく、神様が選んでくださっているからです。17,18節を読みましょう。

 

3) 選ばれていること (16,17)

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(16,17)

私達が信仰の歩みに行き詰まりを感じる時、助けとなるのはこの事実です。私たちは自分で信じる決心をし、自分で信仰の道を歩んできたと感じていますが、実はイエス様が私達一人一人を選び出し、神様の家族に加えてくださったというのが事実です。それがなければ、私たちは信じる決心をすることもできなかったのです。イエス様が推薦してくださったのですから、何度失敗しても離れないでついて行く限り、神様の方から、突然、あなたは失格と宣告されることはありません。神様は、ご自身が選んだあなたと永遠にともにいることを望んでおられます。あなたの成長を喜ばれますが、決してあなたが耐えられない訓練をする方ではありません。信頼してついて行きましょう。成長してたくさん花を咲かせ、実を実らせましょう。

メッセージのポイント
イエス様を主と信じるということは、しっかりとつながるということです。目に見えるキリストの体の一部となるということです。イエス様はすべての民を私のファンにしなさいとおっしゃいませんでした。弟子にしなさいとおっしゃったのです。ファンになることは弟子となる第一歩ですが、イエス様はあなたにファンのままではいてほしくないのです。一緒に働いて欲しいのです。一緒に楽しい時を過ごすことも大切ですが、イエス様はあなたを、大きな困難に立ち向かって重荷を負い合い、心を合わせて祈り、働く仲間に迎えたいのです。ユアチャーチでイエス様を信じた人も、他の教会から来た人も、それほど長くここにはいないことが分かっている人も、既にクリスチャンであるなら、ユアチャーチはその人を観客ではなく、プレーヤーとして歓迎します。ユアチャーチは誰にとっても癒される場所であり、学ぶ場所であり、成長する場所であり、共に働く場所になりたいと願います。それがユアチャーチの神様に対して果すべき責任だと考えるからです。

話し合いのためのヒント
1) その人がイエス様としっかりつながっているかどうかはどこで分かりますか?
2) 私たちはどのような収穫を期待できますか?