May 29th, 2011 Vol.18 No.22

悔い改めと赦しのプロセス 池田真理 ヘブライ人への手紙 9:23-28

今日初めにお話したいことは、悔い改めるとはどういうことか、ということですが、それは自分の間違いを責めるとか自分を律するということとは違うということを先に言っておきたいと思います。また、表面的に間違いを反省して改めるというだけでもありません。神様の前に私たちが真に悔い改める、ということは、誰にも見せたくないような自分の汚い部分や醜い部分さえも、神様が既に赦してくださっているということを知ることと深く関わっています。

1. 悔い改めの必要 (23)

このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

これより前の箇所で、旧約の時代、つまりイエス様が来られる前の時代の礼拝祭儀について細かく説明がされていました。その時代、ユダヤ人の共同体では、年に一回大祭司が聖所に入って動物の血をささげることによって、自分と民衆のために罪の赦しを神様に求めることが決まっていました。そのような地上の聖所、目に見える礼拝祭儀が、ここで言われている「天にあるものの写し」です。しかし、この箇所が言う通り、そのような祭儀だけでは、神様と人間の本当のあるべき関係を回復することは不可能でした。それは実際、旧約の時代から既に言われていたことです。たとえば、詩篇51編を読んでみましょう。

もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。/打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。(詩篇51:18-19)

どれだけ決まりに忠実にいけにえをささげていたとしても、神様の前に自分の罪を告白し、悔い改める心がなければ、いけにえをささげる行為そのものには何の意味もない、ということです。神様にとって私たちの罪は、神様を中心に生きていない、自分中心に生きているということです。神様は、まずなによりも目に見えない私たちの心を見る方です。そのことを私たちはふと忘れていることがあると思います。自分の言葉や行いの良し悪しにとらわれて、神様の前にありのままの自分の心をさらけ出すことを忘れてしまいます。また、自分の判断で、他人と自分を比べて、優越感を持ったり劣等感を持ったりします。親切であること、謙虚であることは、クリスチャンにとって大切なことですが、それは努力して得るべき目標ではなく、神様の前にへりくだった結果、自然と現れてくるものです。どんなに熱心に、神様に、人に、自分をささげているつもりでも、神様が見ておられるのは、それをしている私たちの心です。なにをしているか、していないかではなく、なぜそれをするのか、しないのかです。 しかし、実際、神様の前に心砕かれて悔いるということは、自分の醜さや間違いを直視することでもあって、恥ずかしく、辛い経験です。とりかえしのつかない間違いをしたと気が付く時、自分で間違いと分かっていながら続けてしまう時、自分の無力さと愚かさに本当に嫌になります。しかも、私たちは、そんなことを一生続けていきます。 でも、私たちが本気で悔い改める心を、神様は侮られないのです。そして、赦してくださっていることを、既に証明してくださっています。それが十字架の出来事です。

 

2. 既に与えられている赦し (24-26)

なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終りにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。(24-26)

何度も間違いを犯す私たちを、神様は私たち以上に知っていました。そして、動物の犠牲によっては不完全だった人間との関係を、ご自身を犠牲にすることによって完全にしようと計画されたのです。その計画は天地創造のときから定まっていて、2000年前に実行に移されました。2000年前、神様はイエス・キリストという歴史上の人物として人間の世界に来て下さって、十字架に架けられて亡くなりましたが、三日後に復活し、その後天に帰られて、今は天にいらっしゃいます。 24節の「天そのものに入り、わたしたちのために神の御前に現れてくださった」というのは、私たちが神様の存在を直接的に前にするとき、つまり私たちのありのままが神様の前にさらけ出される時、その場にイエス様がいて下さるということです。23節と24節を続けて読めば、むしろ、イエス様がいて下さるから、私たちはありのままを恐れずに神様に委ねることができるということです。 そして、イエス様がご自身をささげたのはただ一度で完全な犠牲でした。何度間違えても、既に赦しは与えられているということです。もちろん、だからといって何でも好き勝手にやっていいということではなく、赦されていることを経験することは神様の憐れみを経験することです。本来、私たちの自己中心性という罪は大きすぎて、私たち自身にはその全体も分からないし、負いきれません。実際、神様ご自身が、十字架で苦しんで死ななければならなかったほど、私たちの罪は神様の目には重いのです。でも、それ以上に、そこまでするほど、神様は私たちを愛して、赦して下さっているということです。過ちを悔いることは苦しいですが、その度に神様の憐れみと愛を経験することができるのです。既に赦されていると知ることによって、罪の大きさに気付くということが同時に赦しの大きさに気付くことになるのです。 さて、ここまでは、イエス様を信じる信仰だけが、私たちと神様との関係を完全に回復することができる、というお話でした。この次の27・28節では、更に私たちが与えられている勝利について書いてあります。

 

3. 既に与えられている勝利 (27,28)

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。(27-28)

救いの計画は2000年前に始まりましたが、まだ完成したわけではありません。完成するのは、イエス様が再び地上に来られる時です。それがいつなのかは、私たちには分からず、知る必要もありません。でも、その時には、もう悔い改めと赦しのプロセスを繰り返す必要はなくなります。なぜなら、イエス様を信じ従う者は、イエス様と共に神様の国に入るからです。誰が連れて行ってもらえるのか、誰が行けないのか、そのような議論は無意味です。最初の詩篇で言われているとおり、神様が見ておられるのは私たちの心です。私たちは、ただ自分が十字架の前に立ち、悔い改めと赦しを本気で求めることだけに集中すべきです。 2000年間、多くのクリスチャンは救いの計画の完成を見ないまま亡くなりました。私たちも、見ないまま死ぬことになるかもしれません。しかし、これまでもそうだったように、私たちも、完成の約束に希望を持って歩むことができるのです。私たちの歩みが神様の壮大な計画の中で非常に小さなものに思われても、神様は確かに一人一人の歩みをご覧になっていて、小さな一歩を喜んでいてくださいます。だから、いつも神様の前に自分の小ささに打ち砕かれながら、神様の憐れみを信頼し感謝して、力強く歩んでいきましょう。

 

メッセージのポイント
私たちの罪の重さは、自分では負いきれないものです。事実、神様のひとり子イエス様が十字架で犠牲にならなければならなかったほど重いのです。しかし、同時に、その十字架の出来事が、神様が私たちを愛してくださっていること、既に罪を赦してくださったことを示しています。今神様が私たちに求めておられるのは、自分の罪を悔いて、神様の憐れみを信頼することです。何度失敗しても、もう一度きりの完全な犠牲はささげられました。だから、イエス様が再び来られ、完全な救いを完成してくださるまで、希望を持って歩むことができます。

話し合いのためのヒント
1) 悔い改めるとはどのようなことですか?
2) 神様の救いの計画が完成するのはいつですか?