June 5th, 2011 Vol.18 No.23

あなたは解放されていますか? 鈴木みどり ヘブライ人への手紙 10:1-18

A 本質から目をそらさせるサタンの誘惑

1) 不要な罪意識、「律法主義」(1-4)

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

みなさんは、『法律』や、『規則』を守るのが得意でしょうか?苦手でしょうか?私は『道路交通法』という『法律』を守るのがとても苦手で、以前毎日車を運転する生活をしていた頃は、 ゴールド免許ではありませんでした。でも今は神学生なので、もちろんゴールド免許です。...車を持っていないだけです。 旧約時代、ユダヤ人たちにとって『律法』は絶対であり、これを守らないことは非常に罪深いことでした。今でもそうした律法を大切に守ろうとしている人もいます。ある友人によると、『安息日』に彼らと電車で出かけるのはとても大変だったそうです。なぜなら彼らは、『安息日』には、電車に乗ることはしてもよいのですが、自動改札機に切符を入れたり取ったりすることはしてはいけないそうで、それを代わりにしてあげないといけなかったからです。...もし1人だったらどうするのでしょう? とにかく、その細かく厳しい『律法』をすべて守らなければいけないわけですから、当時の祭司たちは、神様を礼拝しようとする人たちの罪を清めるために、毎年繰り返し、雄牛や雄山羊をいけにえとして献げ、さらにその血を、『律法』どおりに塗ったりかけたりしました。でも、神様と私たち人間との間に交わされた、旧い契約としての『律法』は、「やがて来る良いこと」とここで言われる新しい契約の影に過ぎない、と聖書は言います。また、もしその動物のいけにえによって完全に私たち人間の罪が清められるなら、1度だけ献げれば良いはずで、毎年同じことを繰り返す必要はなかったはずです。つまり、その『いけにえ』は決して完全なものではなく、 1年分しか効き目がなかったということです。清められるはずの人々にとってそれは、自分たちがいかに罪深く、清くない者であるかということを、毎年確認させられるようなものだったのではないでしょうか。 私たち人間は弱い者です。ダイエット中でもついおやつを食べてしまって後悔したりしませんか?あるいはもっとシビアな人生の失敗や、仕事での失敗も、したくはないし、気をつけてもいるのに、繰り返してしまって自分が嫌になったりしたことも、おありではないでしょうか?... 『律法』が、どんなに守るに値するものだとしても、私たち人間は、決してその全てを守りきることは出来ません。そして、もしそのことで自分や人を裁くなら、私たちは神様の望まない間違った形で『律法』に心を奪われる、『律法主義』に陥っていることになります。『律法主義』 は私たちを、『罪深さ』の方に注目させ、犯してしまった罪を何度も思い出させます。そして私たちはそれに気を取られ、知らず知らずに、不要な罪意識に縛り付けられてしまうのです。次の箇所を読みましょう。

 

2) 罪の本質とは?(5-9, ルカ18:9-14)

それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。 あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。

ここで、「罪」について、ひとつ確認しておきたいのですが、「罪の本質」とは、何だったでしょうか? 創世記のアダムとイブを思い出して下さい。彼らはなぜ「いのちの木」の方ではなく、「それを食べると死んでしまうから、決して食べてはいけない」と神様が言われた「善悪の知識の木」 の方から食べてしまったのでしょう?... その実がとても美味しそうだったし、「食べたって死にゃあしないよ」と、蛇に姿を変えたサタンにそそのかされたからでした。そしてその実を食べた二人は、善悪を知るようになりました。神様の愛の中で何不自由なく安全に生かされていた状態から、善悪なんて自分で判断できる!と勝手に自立したつもりになって、心が神様から離れた 状態で生きるようになったのです。これが、私たちの罪の本質です。「神様なしで生きること」 こそが、一番重い罪なのです。週報には書きませんでしたが、このアダムとイブのことが書いてある旧約聖書の創世記2章と3章も、ぜひ後で読んでみて下さい。「偽りの父」とも言われるサタンは、いつもあの蛇のように嘘をついて、私たちが神様から、 あるいは物事の本質から、離れてしまうように働きます。ですから、私たちが「神様から離れてしまっている」という重大な罪のことも、出来れば思い出さないように、常に誘惑するのです。「罪」という言葉の原語は、ヘブライ語でhattat「的外れ」という意味です。つまり、神様か ら離れた状態で生きようとする私たちの状態は、「的外れ」なのです。 こうして私たち人間は、神様から離れてしまった本質的な罪よりも、むしろその結果犯してしまうようになった細かい罪の方が、もっと悪いことなのだという、的外れな罪悪感を持つようになりました。それでいつのまにか、自分や人を好き勝手に裁いてしまう『律法主義』に陥るようになったのです。 時々、ありのままの自分が許せなくなったりしませんか?失敗だらけの自分に、嫌気がさすことがないでしょうか?自分の中の、劣等感を感じるところや、どんなに直そうと努力してもなかなか直らない、嫌なところにばかり目を奪われて、落ち込んだりしたことがないでしょうか?... 私はしょっちゅうあります。 また、何か良くないことが起きた時、「あの時あんなことになったのは、自分のせいだ」と、 必要以上に自分を責め過ぎてしまったことがないでしょうか?... でも実は、それらは全てまったく考える必要のないことで、『律法主義』から来る『不要な罪意識』なのです。 私たちは、思いが神様の愛から離れると、そうやって人間的な価値観だけで、自分や誰かの 『マイナス』に見える部分を裁き始めます。でも神様から見れば、私たち1人1人は、たとえどんな状態であれ、尊くて、価値ある存在です。そして愛されています。イザヤ書にも書いてあります。でも、私たちはすぐそれを忘れるのです。 サタンはいつも耳元で、「お前なんかダメだ」とか、「お前は何も間違ってないぞ」などと嘘をついて私たちを惑わします。そしてその声に耳を傾ける限り、私たちは『律法主義』や『不要な罪意識』から、逃れられないのです。ところが私たちは、とても愚かなことに、そうして罪を犯す間にも、自分の何が罪なのかさえ、正確に認識することが出来ません。もっと言えば、自分が罪を犯していることにさえ、気づかずにいたりします。それはまるでこのルカによる福音書のファリサイ派の人のようです。読んでみましょう。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14)

もしこの箇所を「本質的な罪」について知らずに読めば、決められた律法をきちんと守り、何も悪いことをしていないように見えるファリサイ派の人のいったいどこが悪いのか、わからないかも知れません。でもイエス様が正しい人だと認め、赦してくださったのは、ただ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と胸を打ちながら祈った徴税人の方でした。徴税人というのは、このイエス様の時代、人々から取り立てたお金を、あまり人望のなかったローマの王様に納める仕事をする人だったので、残念ながらこの時代には、あまり人々から良い印象を持たれていませんでした。だからファリサイ派の人は、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と、もう一人の人を裁いたのです。でもイエス様には、そうしたこの世の価値観は通用しませんでした。イエス様は、そのような社会通念や、律法の束縛から、私たちを解放する方だから です。そのことについてお話する前に、ここでちょっと先ほどのヘブライ書5節から9節に戻ります。父なる神様に対するイエス様の言葉として書かれた「」の中の言葉は、詩編40編6節から8節の引用なのですが、「律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」というのは、何かおかしいと思いませんか?.....神様が献げなさいとおっしゃったので、祭司たちがその律法に従って一生懸命献げ続けていた、罪を清めるためのいけにえは、なんと神様には望まれていなかったというのです。大きな雄牛を必死に祭壇まで運んで行った祭司たちが聞いたら、「そんなあ!」と言いたくなるのではないでしょうか? しかしだからといって、決して神様がいい加減な命令をされたわけでも、何か気まぐれのようにそうされたわけでもありません。神様には、その時が来たら私たち人間との旧い契約を覆して、新しい、もっと良い契約を与えてくださるご計画があったのです。9節の「第二のものを 立てるために、最初のものを廃止される」とは、そういう意味です。そしてその父なる神様の「御心を行うために」イエス様はこの地上に、私たちの歴史の中に来て下さったというのです。次の聖書箇所では、そのことがもっとはっきりとわかります。読んでみましょう。

 

B イエス様だけを見上げよう

1) ただ一度、十字架で。(10-14)

この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。  

父なる神様の御心に従って、神の子であるイエス様は2000年前、私たちの生活しているこの地上に来てくださいました。そしてしばらくの間私たちと共に生活をし、現実の歴史の中で、私たちと同じ時間を過ごされました。イエス様は神の子ですが、肉体的には私たちと同じように、ごはんも食べたし、泣いたし、眠くなれば眠ったし、当然、痛みだって感じました。でもその、私たちと同じように痛みを感じる御自身の身体を、イエス様は、「唯一のいけにえ」として、献げてくださったのです。それは、私たちを罪から解放し、律法を完成するためでした。私たちの罪は、何度も動物の血を流すことではなく、神の子であるイエス様御自身が、ただ一度、その尊い命を十字架の上に投げ出してくださり、イエス様御自身が血を流すことによって、完全に清められたのです。 こうして私たちは、イエス様によって、罪からも、守り切れない律法の重圧からも、不要な罪悪感に苛まれることからも、解放されました。しかしイエス様は、イエス様を信じた人だけのためだけに死なれたわけではありません。イエス様は、すべての人のために、ご自分の命を投げ出してくださいました。今はまだイエス様を信じていない人や、今はまだ他の誰かを神様だと信じている人のためにも、罪を負って下さったのです。 それは、その人もまた、いつか神様のご計画にある最も良いタイミングで、イエス様を主と信じ、受け入れ、「1人も滅びずに救われて欲しい」という、神様の愛によるものです。しかし、 ここでは特に、既にイエス様を信じ受け入れた人については、「聖なる者と」されており、「永遠に完全な者となさった」と聖書は言います。まったくもって完全ではない、イエス様を信じてもなお、罪や失敗を重ね続けてしまう、欠けだらけの私たちを、イエス様は、ご自分の命と引き換えに、「永遠に完全な者と」してくださったのです。ですから、イエス様を信じ続ける限り、 私たちは罪からも、律法からも、永遠に解放されているのです。そして13節に「敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」とあるように、私たちを律法主義や無力感へと惑わそうとするサタンの力も、神様の前には何の力も持ちません。では、私たちが今、 本当に気をつけるべき罪とは何なのでしょうか?とても大切なことが、次の聖書箇所にあります。読みましょう。

 

2) 今、私たちが気をつけるべき本当の罪とは?(15-18)

聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。  

アダムとイブの時、神様の愛から迷い出てしまった私たちの本質的な罪は、イエス様の十字架の死と復活によって贖われました。でも、たとえイエス様を信じていたとしても、私たちは相変わらず間違いやすくて、様々な弱さを持った者です。悪気がなくても人を傷つけてしまったりするのです。何年生きても、失敗から学ぶレッスンというのは本当に終わりがなくて、悔い改めることばかりの毎日の中で、私も必死にもがきながら生きている1人の弱い者です。あまりにも成長の遅い自分に、本当に愛想が尽きそうになることもよくあります。だからいつも、「成長が遅くてもいいのです」というメッセージを聴く度に励まされています。 どうか、みなさんも諦めないで下さい。「聖霊もまた」「次のように証し」すると、聖書は念を押した上で、「主は言われる。」と、神様の大切な言葉と想いを記しています。17節です。 『もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』...これは本当に、福音ではないでしょうか。たとえ私たちが人間的な価値観に照らして、どんなに自分の失敗や過ちを責めたとしても、神様御自身は、私たちが過去に神様から離れていた罪も、律法を守り切れなかったことも、すべてイエス様の十字架によって帳消しにして下さっただけでなく、思い出すことさえしない、と言われるのです。なんだか安心しませんか? ですから、イエス様を信じ、愛し続ける限り、私たちはもう、犯してしまった過ちや失敗について、自分を責め続ける必要はありません。本気で悔い改めたなら、後はもう、神様にすべてお委ねしましょう。神様が「思い出さない」、と言われるのに、私たち自身が何度も思い出して、出来なかったことや、失敗してしまったことでいつまでも自分を裁き続けるのは、イエス様を何度も十字架にはりつけてしまうようなものです。そこから解放されましょう。自分だけでなく、他の人を裁くことについても同じです。神様がその人の罪や失敗を「思い出さない」と言われる時に、私たちが勝手にその人を裁くことはできません。神様が赦した人を、私たちが赦さないわけにはいかないのです。それは、私たちが神になるようなもので、それこそ本当に恐ろしい罪で す。しかし、何よりも一番、私たちがしてはいけない「罪」があります。何でしょうか?...それは、イエス様から離れてしまうことです。イエス様だけが、私たちの罪を贖うために、十字架にかかり、ご自分の命を「いけにえ」として献げてくださった、ただお一人の方です。そのイエス様の愛を忘れ、そこから離れてしまうことこそが、私たちにとって最も重大な罪であり、危険なことです。逆に、十字架のイエス様を見上げ、その愛の内を歩み続けるならば、どんなにサタンが私たちをダメなやつだと中傷して、自己嫌悪に陥らせようとしても、あるいは人間的な価値観で人を裁かせようとしても、その誘惑を退けることができます。一番大切なことは、私たち1人1人が、「私の」罪を赦すために十字架にかかってくださったイエス様の尊い犠牲を忘れずに、心から感謝してその愛に応え、イエス様を愛し続けることです。そして、その愛の内を歩むことで、不要な罪の意識から解放された、健やかな人生にしていただくことができます。もう、できなかったことや、してしまったことで、思い悩む必要はありません。ただイエス様に感謝して、胸を張って歩いて行きましょう。

 

メッセージのポイント
旧約時代、律法により祭司たちが捧げた動物のいけにえが、もし人間の罪を完全に清めることができるものだったなら、毎年捧げ続ける必要はなかったはずです。それはかえって罪の記憶をよみがえらせるものでした。しかし神様は、私たち人間と新しい契約を結んでくださいました。イエス様の十字架の死と復活です。神の子であるイエス様が、ただ一度御自身をいけにえとして献げてくださったことにより、律法は完成し、私たち人間は罪から解放されました。イエス様を信じ愛し続けるなら、私たちは永遠に赦されています。過去の過ちで自分を責め続ける必要もありません。私たちのためにご自分の命を投げ出してくださったイエス様だけを見上げ、感謝し、胸を張って歩いて行きましょう。

話し合いのためのヒント
1)イエス様は、私たちのために何をしてくださいましたか?
2)私たちが本当に気をつけるべき罪とは、どんなことでしょうか?