June 12th, 2011 Vol.18 No.24

教会の誕生日 使徒言行録2章より

今日から50日前、何月何日だったか分かりますか?それはイエス様の復活を祝ったイースターの4月24日です。五旬祭(ペンテコステ)とは50日後の祭りという意味で、ユダヤ人にとって最も大切な「過ぎ越し」と呼ばれる出エジプトの恵みを感謝する祭りの50日後の祭りという意味です。この祭りの日にエルサレムで驚くべき出来事が起こりました。イエス様の復活は、この過ぎ越しの祭りの安息日に起きた出来事です。つまりクリスチャンにとっては主の復活から50日後に起きた特別な出来事です。そこで何が起きたのか、あなたにとってどのような意味があるのかをお話しします。

A それは預言されていた出来事

1) 旧約聖書の預言

その出来事の詳しい内容は後半でお話ししますが、一言で言うなら「神様の霊:聖霊が人々に注がれた」ということが起こったのです。復活の喜びに満たされ「さあこの良い知らせを多くの人に伝えよう」と行動を起こそうとした弟子たちに対してイエス様は「まだです。聖霊を受けるまで待っていなさい」と命じられました。イエス様に従って力強く歩むためには、聖霊に満たされることが必要だということです。この日が来ることを旧約の預言者ヨエルは預言していました。

イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。(ヨエル2:27-3:2)

それは、神様の存在がより確かに知られるためであり、老若男女、身分の違いを超えて誰でも神様に従う者には霊的な力が与えられるためでした。この力によらなければ、教会は今日まで続いて存在することはできなかったでしょう。そしてこれから、この働きをさらに力強く進めてゆくためには、当事者である私達もまたこの力に満たされる必要があります。この事はイエス様自身も預言しておられます。

 

2) イエス様ご自身の預言

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 (ヨハネ福音書 14:15-21)

ここでイエス様は、聖霊について、目に見える存在ではなくなったイエス様に代わって、私達を実際に導く役割を担うために来てくださる方だと紹介しています。私達が、神様を三位一体の方だと知っているのは、父として、子として、そして聖霊としてご自身を現されているからです。肉体の目でイエス様を見ることの出来る時代は、あの2000年ほど前のクリスマスからイースター間の30年間ほどに過ぎませんでした。けれども今、聖霊の働きによって、私たちはイエス様を見上げ、イエス様と共に生きることができます。イエス様とともに生きるとは、神様の掟である「愛」に生きることです。それが、イエス様を愛することなのだと、イエス様ご自身が言われているのですです。そのような人を神様は愛され、その人の人生に、ご自身を現されるのです。それがあなたに実現するために、あなたも聖霊に満たされる必要があります。

 

B そこで何が起こったのか

1) 聖霊が下った

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録 1:3-5)

よみがえられたイエス様が40日にわたって弟子たちと共に過ごされた後、天にお帰りになる直前に彼らにこう告げられたのです。弟子たちはエルサレムで泊まっていた家の一部屋で心を合わせて祈ってその時を待ちました。そしてその日が来たのです。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録 2:1-4)

起こったことが、心理的なこと、感情的なことではなく具体的なことであることが分かります。耳に聞こえ、目に見えることが起こったのです。この事に似た出来事がそれ以降の教会の歴史の中にも何度か起こっています。それが起こるのは、神様が特別なことを始められるときでした。ヴィジョンや力を見失い、社会にインパクトを与えられなくなったとき、神様は再び聖霊を力強く注いで、私達に立ち上がり歩み出す力を与えてくださったのです。 自分自身を振り返ってみましょう。自分のうちに神様がもっと力強く働いていただきたいという飢え乾きはありますか?それともイエス様の弟子としての自分に満足していますか? ユアチャーチはどうでしょう?聖霊の力が豊かに働いていますか?この状態で十分なのでしょうか?満足していいのでしょうか?私はユアチャーチはもっと聖霊に満たされ、もっと働くべきだと思います。

 

2) その結果、教会が始まった (使徒言行録2:41-47)

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2:41-47)

起こったことは、人間には説明のつかない奇妙な出来事でした。聖霊に満たされた人の様子は、朝から酔っ払っているようにしか見えなかったのです(2:15)。しかしペトロが、この出来事は預言されていたことであり、イエス・キリストの十字架とよみがえりによって現実になったことを伝え、信じて聖霊に満たされることを勧めると3000人程の人が仲間に加わりました。そこで何がなされたのでしょうか?教え、交わり、聖餐、祈り、礼拝が始まったのです。つまり、教会が誕生したのです。民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人を日々仲間に加え一つにされました。2000年近く前に始まったこの出来事の最新の部分の一つとしてユアチャーチはあるのです。ユアチャーチが神の国の完成に向かって進んでゆくためには聖霊の力が必要です。ユアチャーチはここに集う一人一人の集合です。私たち一人一人が、聖霊に豊かに満たされていることが、ユアチャーチが聖霊に満たされた教会だということです。ペンテコステの雰囲気を人工的に作り出すことは簡単です。人を霊的に満たされた気分にさせることなら薬でもできます。しかし、そこに本当に聖霊が注がれていないのなら、良い実を結ぶことはありません。私たちは、聖霊ご自身がなさってくださるならどのような現れでも歓迎したいと思います。これからのワーシップタイムは歌う中で神様と出会うとき、聖霊をお迎えする時です。期待して待ち望みましょう。

メッセージのポイント
ペンテコステは教会の誕生日です。教会は人の思いつきや努力ではなく、聖霊によって始められたのです。聖霊は今でも働き続けておられます。教会は人の力や知恵によって働いているのではありません。聖霊の働きなしに教会の働きを進めようとしてもうまくは行きません。クリスチャンは聖霊の力によって生きる者です。無力であることを自覚していることは大切ですが、それは力を発揮しなくても良いということではありません。自分の力では動きそうもない障害物に絶望して、正しいと信じる道を進むことを諦めてはいけません。むしろ聖霊に満たされることによって障害を乗り越え前進を続けましょう。聖霊がユアチャーチをどう導こうとしておられるのか?注意深く見聞きして従ってゆきましょう。

話し合いのためのヒント
1) なぜ聖霊に満たされるべきなのですか?
2) なぜペンテコステは教会の誕生日と言えるのでしょうか?