June 19th, 2011 Vol.18 No.25
神様はあなたにどう信じて欲しいのか? ヘブライ人への手紙 17(10:19-25)
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです
イエス様が十字架の上で息絶えられた時、いろいろな現象が起こった事を福音書は伝えています。神殿の垂れ幕が真ん中で上から下まで真っ二つに裂けてしまった事を、共観福音書のすべてが伝えています(Mat.27:51,Mk.15:38,Lk.23:45)。この垂れ幕とは、ユダヤ教の神殿(神殿が出来る前は会見の幕屋)の中心である聖所と、さらにその奥に設けられた至聖所を隔てていたものでした(Ex.26:31-33)。至聖所に入ることができるのは、民と神様との間に立つことを許された大祭司ただひとりだけで、しかも年に一度だけと命じられていました。この垂れ幕が裂けたというのは、イエス様はご自身の肉体が裂かれることによって、今までにはなかった、私たち人間が神様に近づく通路を開いてくださったということの表れです。私たちと神様とを隔てる私たちの罪がイエス様の十字架の死により赦されたことの眼に見える証拠として起きたことでした。それは今まで閉ざされていた、神様に近づく道です。通路です。そこを通り神様の前に進み出なければ、神様の前に立つことはできません。それは最も大切なクリスチャンとしての成長の機会です。多くの人が、目の前に開かれた道を見るだけで満足してしまいます。しかしクリスチャンは、その道を通り、神様の前に進み出る責任があります。イエス様が大祭司であるなら、弟子である私達は祭司です。神様に近づくのは自分のためだけではありません。それがまだ神様を知らない、皆さんの愛する人々のためなのです。祭司としてのあなたの務めなのです。どのようにしたら、それらの人々の助けとなるのでしょう?それはあなたが礼拝することを何よりも大切にし、もっと神様に近づこうと成長し続けることによってなのです。
更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
あなたの、もっと神様に近づきたいという願いが真実なら、神様はあなたを引き寄せてくださいます。神様に向かって歌うとき、祈るとき、聞くとき、神様の働きをするとき、「もっと引き寄せてください」という真剣な願いを持ってそうしましょう。 神の家とは神の家族、教会です。でもそれは今キリスト教会のメンバーになっている人だけのものではありません。教会の扉はすべての人に開かれています。キリストの愛と義による支配は、すべての人に及ぶのです。それに気付いていない、認めることができない人もいます。皆さんが心にかけているすべての人が、この家族の一員となる資格があるのです。この家族に一員となるということは、神様に向かって歩み始める、成長し始めるということです。誰がその人にこのことを教えることができるでしょうか?それはあなたです。それは言葉で教えることではありません。あなたの行いや態度が影響を与えるのです。あなたの目に見える信仰が、人々を信仰へと導くのです。
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、
第一に、私たちの信仰は、愛を行うということで目に見えます。神様はあなたの人生に確かな歩みを約束してくださる方です。「真実な」とは真理に忠実ということです。だから私たちが、人生の希望をすべてイエス様に託したことは間違ってはいないのです。これで良かったのか?物事がうまく運ばないとすぐに懐疑的になる私たちですが。神様は信じる者に「あなたの思い通りに物事が運ぶ」とは決して約束なさいませんでした。そうではなく「神様のあなたに与えた計画が実現する」と約束されたのです。困難の時でも神様に託した希望を失わずに愛し続けるのです。善行とは、心の中の愛が目に見える形で現れたものです。人の好意や尊敬を得るための投資であるなら、本当の善行ではありません。善い行いは、目に見える信仰の一つです。イエス様ならこの人にどうしてあげるだろう?どうお語りになるだろう?そのことを想像して、いわばイエス様の耳となり、目となってニーズを知り、手となり、口となって愛を行うのです。イエス様の口や目になりたいクリスチャンは沢山いますが、耳となり手足となることはあまり人気がありません。私たちはキリストの体である教会です。体にはバランスが必要です。皆さんには特によく聞く耳、よく働く手足になることを励ましたいと思います。よく働く手足であるためには体にしっかりとつながっていなければなりません。最後の25節を読みましょう。
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
第二に、私たちの信仰は、教会に連なるということで目に見えます。集まることをギブアップするというところを、日本語の聖書は「怠ける」という字を当てています。しかしヘブライ人の教会の場合、彼らを敵視する者たちからの攻撃という身の危険があって「あきらめる」人が多かったのです。彼らが怠け者だったわけではありません。手紙は、そのような状況の中でも「身の危険があったとしても、なんとか工夫し、励まし合って集うことをやめてはいけません。」と勧めているのです。信じる者が共に集まることはそれほど重要なのです。先週お話しした、誕生したばかりの教会では毎日のように、共に祈ったり、食事をしたり、礼拝をしていたのです。皆、仕事も住まいも近かった、現代人より忙しくなかったからそうできたのでしょうか?こんな統計はないのですが、自分をクリスチャンと理解している人を対象に「あなたは週に何回、他のクリスチャンと共に集いますか?」という質問の結果はどのように出ると思いますか?私の推理では、日本では0.1以下になるのではないかと感じています。つまり残念なことに、ただでさえクリスチャンの少ないこの国で、この言葉を真剣に受け止めて礼拝やミニチャーチなど共に集うことを大切にするクリスチャンよりも、信仰は個人的な心の問題であって、共に集うのは自分の気の向いたときだけ、クリスマスとイースターくらいは教会に行きます、といった人のほうが多いということです。それでは私たちは成長できません。いろいろ工夫をして共に集う時を増やしてみてください。それは今ある集まりになんとか予定を合わせてもっと出席するということだけではありません。自分の集まりやすい方法や日時場所を考えるということでもあるし、そのようなアイディアを教会のリーダーに話してみるということでもあります。それはあなたの成長の機会を増やし、愛する機会を増やし、あなたの愛する人々が神様を知る機会を増やすことになるのです。
メッセージのポイント
神様を信じるといっても、それはただ存在を認めるということではありません。神様ご自身が私達に求めておられる「信仰」がここに記されています。それは、ただイエス・キリストの十字架を自分の罪のあがないと信じ、キリストと共に祭司として立てられていることを自覚して人々に神様を紹介することであり、主イエスに従う歩みを通して神様に近づき続けることです。そして信仰とは目にみえない心の態度にはとどまらず、目に見える教会につながって実際に愛を行うことなのです。
話し合いのヒント
1) 神様は私達にどう信じて欲しいと願っておられるのでしょうか?
2) なぜ集会を怠るべきではないのですか?