July 3rd, 2011 Vol.18 No.27
信仰 ヘブライ人への手紙 11:1-16
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
この節だけを抜き出して、「まだ実現していない自分の願いが必ずなると思い込むこと」が信仰だと思ってはいけません。そのように聖書の一部を抜き出して、自分の繁栄を追求しようと勧める「耳触りの良い」メッセージをする人を警戒しなさいと、聖書自体が警告しています。 ここで言われている「望んでいる事柄、見えない事実」とは一般的なことではなく、神の国が実現することなのです。イエス・キリストの十字架によって、彼を主と信じる者は、何人であれ神の国の国籍が与えられました。私達にとっては、旧約の人々以上に確かなこととなっています。それでもまだ地上では、私達の望む神様の義や平和や愛は完全ではありません。だからまだ私達には信仰:待ち望むことが必要なのです。待ち望む信仰は、言い換えれば、神様に対する信頼です。ただ聖書の神様が唯一の神様であることを認めるということではなく、約束の完成を信じてイエス様と共に神の国に向かって歩み続けるということです。それは時として、陸も島も全く見えない360度、全て水平線しか見えない航海のようなものです。何か別の目印を見て安心することはできません。ただイエス様という船長を信頼して、船員として自分に与えられた務めを日々忠実に果たしてゆくしかないのです。
昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
神様はユダヤの民をエジプトから約束の地に到着させるまで40年もおかけになりました。実際には徒歩旅行でも数週間で十分着く距離です。神様がそうなさったひとつの理由は、彼らの信仰を育てるためでした。人が本当に生きるためには、体の栄養ではなく、心の栄養=神の言葉が不可欠であることを、知らせなければなりませんでした。この信仰は、極少数ではありましたがイエス様の時代まで受け継がれ、イエス様の十字架の意味を受け入れ、信じ、従う人が起こされて新しい「終りの時代」が始まったのです。世の中の多くの人々は相変わらず、目に見えるものによって世界が成り立っていると思い込んでいます。その結果、起こってくる出来事に一喜一憂し、争い、傷付け・傷付き、勝ち誇り、絶望することに忙しく、神の言葉に耳を傾けようとはしないのです。そのような社会を、信仰を持った者が居心地が悪く、歩みにくいと感じることは全く不思議なことではありません。旧約の時代の信仰者にとっては、私達が知っているイエス様についてさえ、まだ見えない将来の事実だったのです。それでも約束の言葉を確信して生涯を歩み続けた人々に共通する特長を次の部分から読み取ることができます。
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
よい機会ですから、どうかこれらの人々の物語を旧約聖書で読みなおしてみてください。聖書の登場人物の中でも有名な人々ばかりですが、一人一人が傑出した能力によって賞賛されたスーパーヒーローではありません。だからこそ私たちも、彼らに共通な生き方をすることが出来るのです。彼らの共通点、それは神を見上げて、神に聞き、神に従うという点です。その反対の生き方なら、聖書の中でも、私達の回りでもいくらでも見ることができます。それは、神様ではなく、人を見上げ、人に聞き、人に従う、ということです。これこそ、聖書で固く戒められている「偶像礼拝」です。眼に見えるものは何でも、その人の偶像となり、神様に従う障害となる可能性を持っています。お金や、財産、魅力的な人物、様々な哲学、思想などはもちろんのこと、教会堂や特定の教会、神学、牧師でさえそうです。私たちは、聖書や、歴史や、実生活の中で、目に見える物事に左右されず神様を見上げて歩んでいる人を見分け、彼らをお手本に(偶像にするのではなく!)、自分も同様に歩くことが出来るのです。どんなに充実した礼拝に身をおいたとしても、その人自身が礼拝し、神様とのコミュニケーションを確立するのでなければ、信仰で生きることは出来ません。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
私たちは、主イエスさまが再び来られることを聖書によって教えられています。しかしそれがいつであるかは誰にも分かりません。初代のクリスチャンは、そのことが自分たちの生きているうちに起こると考えていたことが、新約聖書の多くの手紙からよく分かります。おそらく私達もまた、旧約聖書の信仰者と同様に信仰を抱いて死んでゆくのだと思います。約束は確かに与えられました。世界は不完全なままですが、イエス様はこの不完全な世に来てくださったのです。私達一人一人にとっては、終わりの日が来ることも、自分の命が終り天に移されることも、変わりはありません。変わったのは今の私達です。相変わらず生き難い世界に住み、悩みがあります。この世では旅人です。しかし旧約の人々と決定的に違うのは、約束されたものを、はるか遠くに見て喜びの声をあげるのではなく、イエス様が共に歩んでいてくださることに、喜びの声をあげることが出来るというところなのです。さあ、これからのワーシップタイム、心からの喜びの声を神様に献げましょう。
メッセージのポイント
神様がいると信じているだけでなく、神様が最も良い人生を用意していてくださるという信頼することが信仰です。信仰がなければ未来を期待することはできないし、自分の目で見えるものしか信じることはできません。信仰がなければ、自分が持っているものを失うことを恐れ、持っていないものが手に入らないことを恐れて生きるしかありません。信仰があれば、失うことを恐れず、必要は必ず満たされると安心して生きることができます。旧約聖書に登場する信仰者たちはみな生涯この「信仰」を持ち続けました。私達の故郷:目的地は地上にはありません。その意味では、全ての問題が地上での生涯のうちに解決するわけではありません。しかし、信仰者はその先にある故郷:目的地を目指して歩み続けます。
話し合いのヒント
1) あなたなら「信仰とは何ですか?」という質問にどう答えますか?
2) なぜ私たちは地上では旅人なのでしょうか?