July 17th, 2011 Vol.18 No.29

信仰に生きるとは? ヘブライ人への手紙 11:23-29, 出エジプト記1-15

先週お話ししたヨセフがイスラエルの民をエジプトに招き入れた人なら、今日、注目するモーセは民をエジプトから導き出した人です。モーセの生涯からから、私たちが持つべき信仰を学ぶことができます。 ヨセフの時代から長い年月が過ぎ、モーセの時代には、ユダヤ人はエジプトで奴隷のような状態に置かれていました。事態はさらに悪くなり、男の子は王の命令によって、生かしておけないということにさえなっていました。

A 親の信仰が信仰に生きる者を生む (23)

信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。(23)

最初に紹介するのはモーセの両親の信仰です。モーセが美しかったからとありますが、それは外見のことではありません。NIVは普通の子ではなかったから、と訳しています。要は両親は生まれたばかりのモーセに神々しさ(神様が何かこの人を用いようとしている雰囲気)を感じたということです。 来週は聖書が子育てについてどう教えているかということをお話しするのですが、この部分も聖書の子育ての大切なポイントの一つです。モーセの両親と同様に、私たちは、神の人、神様に用いられる人を託されたのです。 彼らは捨てることを命じた王を恐れるより、神様を畏れました。私たちは、このときのようなことが起こるはずはないと思っていますが、それに似た野蛮な人口抑制政策が権力者によって行使されることは今でも起こります。 けれども子供は、自分のものでも、国のものでもなく神様のものです。神様が自分たちに委ねた以上、私達もまた最善を尽くして守り育てるのです。 権力者が子供に対する権利を主張したとしても、妥協して譲ることはできません。私のものでもなく神様のものなのですから。子どもの生涯設計を決める権利は親にはありません。 プランは神様が持っています。親ができることは、子どもたちが自分で神様に聞くことのできるように信仰を継承することです。 ですからその前に自分たちが神様に聞きつつ歩んでいるかどうかがポイントです。自分がしていないことをすすめるのでは説得力がありません。その人が口で言っていることと、その人の生活がかけ離れているなら、誰もそんな人に従ってゆこうとはしないでしょう。信仰は口だけで伝わるものではないのです。

B 信仰に生きる者は

1) 本当に価値のある生き方を選びとる (24-26)

信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストの ゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。(24-26)

結局モーセの両親は彼を隠しきれなくなり、ナイル川に流さなくてはなりませんでした。しかし神様は家族に知恵を与え、彼が生き延びる道、しかもファラオの子として成長するという道を開いたのです。 若い人にとっては、将来はあらゆる方向に開かれているように見えます。多くの分かれ道が次から次へと現れます。しかしたどることができるのは一本だけです。あの時別の判断をしておけばよかったと思ってもやり直すことはできません。 モーセにしても、宮廷内に居ながら、なんとかイスラエル人の地位向上を図るというやり方も考えられたでしょう。しかし、彼はエジプトが、民の居続ける場所ではないことを知っており、その選択はしなかったのです。 ここで著者「神の民」とキリストを同一視しています。 もちろんモーセはイエス様を知りません。著者は、神様がイスラエルをご自身の長子といわれたこと(出4:22)を知っており、クリスチャンがキリストの体であると同様に、神様の長子である民と運命を共にするというモーセの決心をキリストと共に歩むことと同質であることがわかります。 具体的な選択をしなければならないとき、よく祈りよく聞く必要がありますが、根本は、イエス様と共に歩むということです。それはあなたにエジプトの財宝にまさる報いをもたらします。

2) 人を恐れず、神様を畏れる (27)

信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。(27)

神様から目を離し、あちこちキョロキョロしているうちに人は道を外れ、迷ってしまいます。 私達に与えられている特権は、モーセ以上にものです。目に見えない方が、十字架にかかったイエスキリストとして、死に打ち勝って復活された方としてともに歩むことが出来るという特権です。 そうであるならば、モーセが王を恐れず神様を見上げてまっすぐに歩んだ以上に、私たちは、示されている道をしっかりと歩むことが出来るはずです。 私たちは、やはり肉眼では見えないけれど、イエス様が共にいてくださる唯一の主だということを、聖書と多くの証人による証言を信じて、困難を耐え忍ぶことができます。 相手が大きな力を持っていたとしても、私達が恐れずに住むのは、どのような人間よりも強い方と共に歩んでいるからです。

3) 神様に従って行動する (28)

信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。(28)

子羊の血は、イエス様の血が流されることの前触れです。神様の完全な贖いはイエス様の時になされました。 エジプトからの救出は偉大なことではありましたが、人の魂を滅びから救い出す、十字架の出来事に比べればはるかにスケールの小さい出来事でした。まだイエス様の時は来ていなかったのです。 神様はモーセに意味を説明することなく、このように行いなさいと命じられました。モーセはそれを完全な救いの前触れであることを知らずに行いました。 神様はいつもではありませんが、私達にはどう考えてもその正当な理由がわからない事を命じられます。 一方で、このことを良いことに「神に従いなさい」といいながら、巧みに自分に従うことを要求する「宗教指導者」がいます。「牧師の命令は神の命令として聞きなさい」と言ったりする悪い羊飼いです。 だから私達は注意深く良い羊飼いの声を聞き分けなければなりません。神様に正しく従うためには良い耳が必要です。 人の言葉にも、自分の欲望の言葉にも騙されることなく、神様から聞くことは難しいことです。私たちは、礼拝することを中心に生きること、キリストの体の一部として歩むことによって、この霊的な耳を鍛えることができます。

C 信仰に生きる者は信仰を与えることができる (29)

信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡り ました。同じように 渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。(29)

イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを離れました。この紅海をわたってエジプトを脱出した出来事は、民族の記憶と して今でもイスラエルの人々の心に深く刻まれています。 モーセが導いて紅海をわたったのですから、モーセの信仰として取り上げても良いと思われる箇所ですが、著者は人々の信仰として記しています。モーセの信仰は、民に伝わったのです。 この後の、約束の地に入るまでの40年も聖書の記録を見ると、信仰があるのかないのかわからな いような頼りない歩みで、神様から叱られたり、罰せられたりしながら、それでも約束の地につくことができました。しかし、そこまで導いてきたモーセは入ることができずに死んだのです。そこまでがモーセに与えられた地上での使命でした。 こうして両親の信仰が信仰者モーセの生涯を始めさせ、モーセは民の次の世代に信仰を植え付けて世を去ったのです。 この信仰の継承は実の親子の間だけで伝わるものではありません。特にこの国の場合は一代目クリスチャンが多いのです。でも彼らに信仰を伝えた人、霊的な父母が必ずいるわけです。それはあなたが伝える場合も同じことです。 しかしあなたに子どもが委ねられるなら、信仰に生きるあなたの姿を見せ続けることが、神様に与えられた一番大きな責任です。この責任を果たすために特別な技術はいりません。ただあなたが裏表なく、言うこととすることのギャップが大きくなく、心から喜んで神様に仕えることです。

メッセージのポイント
神様は私たちが信仰に生きることを望んでおられます。信仰に生きることは「神様を見上げつつ歩む」とも表現できます。それは、神様の義と愛を基準に生きるという事です。神様を見上げつつ歩むなら、私たちは人を恐れずに正しい判断をし、正しく行動することができるのです。モーセの両親の信仰が、モーセを信仰の人として立たせ、モーセがその民を信仰によって歩むものとさせたように、あなたの信仰に生きる姿が、永遠の希望をもっていない人に信仰を与えることができます。

話し合いのヒント
1) なぜモーセの両親は彼を隠したのでしょうか?
2) 信仰に生きるとはどういう事ですか?