July 24th, 2011 Vol.18 No.30

子供は聖書で育てよう 申命記6:4-9

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。(申命記6:4-9)

旧約聖書のイスラエルの民とクリスチャンとの共通点は「神の民」であるということです。申命記は神の民にとって最も大切なこととして「神、主を愛しなさい」と命じています。そしてさらに、それを子供たちにあらゆる努力を払って伝えなさいと続けています。それで分かることは、この大切な生き方の基本が、いかに身につきにくいかということです。自分自身がそのように生きること自体、簡単なことではありません。しかしさらに、それが出来ていたとしても、子供に自然に伝わるようなものではないのです。子供たちをどう育てるかの基準ははっきりしています。神を愛する人を育てあげる、ということです。尊敬される人でも、優秀な人でも、裕福な人でもありません。

A 聖書の教える親子のあり方

1) 様々な祝福の形(ヤコブ、一人っ子イサク、養子エステル、独身パウロ)

子どもをどう育てるか考え始める前に、子どもがいることだけが祝福なのではないということを知っておく必要があります。夫婦であっても、子供を授かるかどうかは神様がお決めになることです。子どもが授からないことは決して呪いのようなことではないのです。聖書を読むと、ヤコブのような子沢山の祝福やアブラハムや、バプテスマのヨハネの父ザカリヤのように高齢になって子どもを授かる祝福も記されていますが、養女エステルを育てたモルデカイの祝福もあれば、使徒パウロのように独身者の祝福もあるのです。子供を産み育てるのが当然のことと考えるのは間違いです。そのような世間の間違った期待に心を重くしている人も多いのですから、若い夫婦に向かって、子供はまだ?などと聞くようなことはユアチャーチでは決して起こってほしくないことです。

 

2) 子供はだれのものか? (マタイ10:37-39, 19:29, 22:37-40)

この社会での子どもについての大きな間違いが二つあります、子供は自分たちのものだという考えることと、反対に子供を「主」にしてしまうことです。 自分の果たせなかった夢を子どもに押し付ける、事業を継がせるために他のものに興味を持たせない親がいます。一方で、子どもの自主性を大事にするといって甘やかして、子供の言いなりになっていたり、子供にコントロールされている親がいます。しかし聖書はこのことに対しはっきりした見解を持っています。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:37-39)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイ19:29)

このことは愛さないという意味ではありません。優先順位なのです。むしろイエス様の次の言葉のように、子供を最も近くにいる隣人として愛さないなら、神様を愛している事にもならないのです。

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

ここには厳然とした順番があります。それは神を愛さない人には、人を愛することは不可能だという認識に基づいています。愛することは神様から出てくる事であって人の内にはないからです。好きという感情はあっても、相手のために喜んで犠牲になろうという思いは神様からしかやってきません。親が、第一の掟に真剣であり、第二の掟に忠実に子どもを愛するなら、子供は神様を愛する人に育ちます。

 

B 違いのわかる大人になろう

1) 親としてのリーダーシップはイエス様に学ぼう (ヨハネ5:19-30)

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。(中略)わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ5:19-30)

ここでのイエス様は、子どもを育てる親のための良いお手本です。地上で歩まれたイエス様は人として、自分の権威がどこから来ているものなのかということをよくわきまえられておられました。しかし裁くことは自身に委ねられているという責任も知っていました。私達がイエス様を見習うということは、神様からしっかり聞いて、自分の責任で決断しながら進んでゆくということです。それは、神さまの権威の下で正しく子供を自分の権威のもとにおくということです。子どもにとって、神さまの権威と親の権威は連続した一つのものでなければなりません。

 

2) 聖書に学ぶ育て方 (箴言13:24,23:13, エフェソ6:1-4, コロサイ3:20,21 etc.)

それではいくつかの具体的な育て方の知恵を与えてくれる箇所を開きましょう。個々の詳しい議論は、午後のセミナーで取り上げられる予定です。

鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。(箴言13:24)

若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。鞭打てば、彼の魂を陰府から救うことになる。(箴言23:13,14)

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エフェソ6:1-4 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。(コロサイ3:20,21)

怖くて甘い大人から、厳しくて優しい大人になろう。 それは結局、「神様の義と愛」に生きている人になるということです。そのことがあらゆる局面で問われているのです。 例えば、叱る、褒めるはどちらも大切です。そうするとき大切なのは基準がいつも一定で、変わらないことです。そうでなければ子どもが混乱してしまいます。 厳しいと、怖いは違います。それは、子供を叱る人と怒る人の違いです。しかるのは子供のためであり、怒るのは自分の感情です。あのおじさんに叱られるからやめなさい。というのは叱っていることにはなりません。それは自分が恥ずかしいという感情の表れだからです。子供は、叱るおじさんがいないところ、甘い人しかいないところでやればいいのだと学ぶわけです。 頭に血が登って、わめいたり、手を挙げる時点で親の負けです。子供は嵐が去るまで頭を下げてやり過ごせばいいのだと学びます。 同じように優しいと甘いも違います。甘いとは、よくはないと思っても妥協して希望を叶えることです。優しいとは、いけないことは決して譲らないけれど、愛していることはちゃんと伝わっていて信頼されることです。甘い親は、子どもにとってはいつも交渉相手で、あの手この手で妥協させようとしています。優しい親は、子どもにとっては交渉できる相手ではありません。絶対の存在です。親の言うことが聞けないなら、その子供ではいられないし、それは生きて行けないことを意味します。そのことをよく知っていて、しかし決して横暴とは思えず、自分のことを誰よりも大切に考えていてくれる存在、それが優しい親です。神様にしっかりと繋がっていなければ、誰も厳しく優しい親にはなれません。 競争させることと比較することの違いを知りましょう。競わせて伸びるところを伸ばすのはいいが、誰かと比べてけなさないことです。それは直接子供に対してだけでなく、あなたの妻(夫)に対してもです。子供はあなたを見習って、人前でさえ、平気で家族をけなす人になるでしょう。他の子や兄弟と比べて「あなたはいい子ね」と褒めるのも間違いです。叱るにしても、褒めるにしても、両親の一致、父と母の躾の基準が変わらないことが大切です。

 聖書には子育てについての多くの反面教師も見ることができます。 へロディアは考えの及ばない子供に自分の願望を叶える道具として、たいへん残酷な言葉を口にさせてしまいました。(マタイ14:5-10)  ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。(マタイ14:5-10) ここまでひどい言葉ではなくても、自分の願望を誰かに伝えるのに、子どもを利用する人は少なくありません。自分の気が進まなくて何かを断るのに、子どものせいにするのです。しかし、聞いている子供は、それが自分の願望ではなく、親のそれであることを知っています。 ヤコブとヨハネの母(マタイ20:20,21)は元祖モンスターペアレントです。 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」(マタイ20:20,21) イエス様がこの世で王となると誤解して子供たちが王に次ぐ地位を得られるようイエス様に願いました。子供たちの地上での成功しか考えにはなく、それは自分の虚栄心を満足させるものでした。自分の子供達が他の弟子たちよりも優れているとイエス様に言わせたかったのです。 イサクとリベカ (25:19-34,26:34-28:9)はエサウとヤコブの両親です。エサウは神様を軽んじ、自分勝手に生きる人で、両親の悩みの種でした。しかし、イサクは彼の方を気に入っていました。ヤコブは決して良い性格とはいえないのですが、神様の祝福なしに生きることはできない、という大切な事を知っていました。リベカはヤコブの側に立っていました。問題の原因はイサクにあります。長子の権利を次ぐ資格がエサウにはないことを知りながらも、彼に期待し続け、二人を同じように愛することができませんでした。ヤコブがリベカにべったりだったことも、その要因でしょう。しかし偏愛は、どちらの子供にも悪い影響を与えます。特に同性の子どもが二人以上いるときには、偏愛してしまう危険があることを知るべきです。 神様にはすべての子供にふさわしい特別な計画が与えられていることを信じ、どの子にも出来るだけのことをしてやる(同じことをしてやるということではありません)のが親の務めです。子育ては背中でと言ってきましたが、そのとき親自身はどうしているのでしょう。そこが問題で、好き勝手なことをしている人の背中を見ても、子供は育ちません。子供を神様の祝福に満ちた人生を歩ませる親は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しているはずです。  

メッセージのポイント
神様は信じる者全てに、その人にとって最もふさわしい人生を備えておられます。多くの人は結婚し子供を育てますが、祝福は独身を通す者にも、子供のいない夫婦にも、養子を育てる夫婦にも豊かに与えられます。独身者パウロには信仰の子供たちが沢山いました。おそらく現代に生きるクリスチャンの多くがパウロの信仰の子孫と言えるでしょう。たとえ肉親がなくても教会には父母、兄弟、姉妹、子供、孫がいます。そして私達は皆、教会の子供たちを育てる責任をもっています。自分の家庭の子どもの教育の失敗に原因は二つしかありません。ひとつは、彼らを自分の所有物だと思うこと、もうひとつは彼らを自分の偶像にしてしまうことです。子どもは神様から委託され育てる「神の人」です。

話し合いのヒント
1) マタイ19:29のイエス様の言葉の真意は?
2) メッセージで子どもを育てるために最も大切だと感じたことはどのようなことですか?

子供たちのために
ユアチャーチキッズは、肉による親の子であるとともに、教会の子供です。家庭にはいなくても、ここには、おばあさん、おじいさん、お母さん、お父さん、お姉さん、お兄さん、妹、弟がいます。これらの人たちにどう接してゆけば良いのでしょうか?それは家族として受け入れることです。両親に従順にというのは自分の家の中だけではありません。お兄さん、お姉さんたちは困ったときに相談にのって、祈ってくれるでしょう。あなたが小さな人たちにしてあげられることもあります。普通、家の外の大人たちは叱ってはくれません。しかし教会の大人は、あなたを自分の子どもとして(つまり、大切に思うからこそ)叱ってくれます。怖いと感じる人もいるかも知れませんが、あなたを嫌ってそうする人はいないのですから話をしっかり聞いてください。