2016/6/19 時がよくても悪くても

永原アンディ・テモテへの第二の手紙 4:1-5

 

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時がよくても悪くても

(2 テモテ 4:1-5)
A. 神様の意思を知る (1, 2)
1) パウロの遺言 (1)

 

1 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます

 パウロは、自身の生涯の終わりが近いことを感じていました。次回のテキストの最初には、自分が世を去る時が近づいたと書かれています。この手紙も終わりに近づき、テモテに一番伝えておきたかった大切なことを「厳かに命じる」という改まった言い方で語り始めます。それはつまりパウロのテモテに対する遺言のようなものです。みなさんのほとんどは若いのでピンとこないかもしれませんが、私はパウロの心境を皆さんよりちょっとわかるようになりました。これだけは伝えておかなければ、教会がいつの間にか、実質的にはキリストの体ではなくなってしまう。それで、つい辛口になったり、色々言って長くなったりするわけですが辛抱してください。遺言なので。パウロもそう考えて、このことだけは何があっても忘れるな!と遺言的に語り始めます。それが自分の願いではなく、神様がその国を実現させるために、パウロを通して次の世代に引き継がせようとしている遺産相続なのだということをパウロは確信しています。それがこの一節のこれまでとは違った普通ではない言い方になっているのです。私たちも、これを引き継ぐ者として聞いてゆきましょう。2節を読みます。

 

2) 神の言 (2)

 

2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

言葉とはもちろん神様の言葉です。当時はまだ新約聖書はありません。彼らが知っていたのは、旧約聖書と、弟子たちの間で言い伝えられてきたイエスの言葉だけでした。これを、どんな時でも人々に伝え、教会の人々にはさらにとがめる、戒める、励ますことを、忍耐強く、注意深くしていきなさいというのが、この遺言的言葉の冒頭であり、パウロの言っておきたいことの中心です。私たちは聖書を神様の言葉だと信じています。しかしそれは、例えば、毛主席語録のように、全て一人称で語られた言葉の記録ではありません。神、イエス自身の言葉も記されていますが、ほとんどは様々な人の言葉を通して、語られた神様の言葉です。パウロもその一人です。毛沢東を知らない人の方が多いと思いますが、彼は20世紀の中国で最も有力な指導者でした。毛主席語録はポケット版聖書のように見える小さな赤い表紙の本です。彼に従った多くの若者がこの本を振りかざしながら、それまでの社会のあり方を徹底的に破壊しました。文化大革命(1966-1976)と呼ばれた出来事です。その本は語録であるということと形は聖書のようですが、中身は全然違います。たった一例ですが、そこには「共産主義は愛ではない、共産主義は敵を叩き潰すためのハンマーだ!」とあります。きっとマルクスも、他の共産主義者も憤慨するでしょうが、言っていることは間違ってはいないと思います。ただし、愛でないのは「共産」主義だけではありません。およそ〇〇主義と言われるものはどれも愛とは言えません。平和主義でさえ愛ではありません。もっと言えば「聖書」主義も例外ではありません。意外でしょうか?でもそうなのです。なぜなら「主義」は全て人間の考える理想だからです。関係ない前置きが長すぎると思わないでください。今日のテキストでパウロは、テモテに伝えたい最も重要なこととして「神様の言葉を伝えなさい」と言っています。私たちは今朝この言葉を自分たちも受け取ろうとしているのですが、ここでパウロが言っていることは「聖書主義」の勧めではないことをはっきりと知ってもらいたいのでこの話から始めているのです。一般に聖書主義は、信仰の基礎を、聖書ではない伝統や教会の権威にも求めてきたそれ以前の教会に対する反省から生まれたプロテスタント教会のあり方を指すものです。そのスタートは正しかったと思いますが、すぐにその極端な形で現れます。ルターにしろカルヴァンにしろ、宗教改革者たちは自分の歩みに強い確信を持っていたので、自分たちが権力を持つと、自分たちと異なる人々をかなり厳しく弾圧、迫害しました。聖書の一部分を抜き出して、書かれたコンテキストとは異なる現代社会の中で、聖書にはこう書いてあるからと異教徒、様々なマイノリティーを攻撃する人がいます。このような人々は、自分は聖書に忠実だと胸を張り、自分の見解を聖書の真理だと言って他の考えを認めません。聖書が科学的にも正しくなければならないと考える人は、聖書を信じるなら進化論は否定しなければならないと言います。聖書が現代の道徳に全て有効だと思う人は、LGBTではイエスに従う者とはなれないと言います。聖書の一節を抜き出してきてLGBTの人々の生き方に当てはめて裁くのです。しかし、旧約の教えをきっちり守っている人以外に彼らを裁く権利は誰にもありません。もちろんそんな人は一人も存在しないのですが。旧約の時代、一夫多妻は罪ではありませんでした。現代では多くに国がそれを認めませんが、だからと言って一夫一婦制は聖書的ではないとは誰も言いません。聖書主義が行き過ぎたのが「原理主義」です。人はイスラム原理主義を嫌悪しますが、原理主義の本家はキリスト教原理主義です。それはイエスの教えから遠く離れた「自分なりの聖書主義」でしかありません。人々が旧約のイスラエル史、預言の言葉、知恵の言葉、ダビデの歌、イエスの言葉、行い、パウロをはじめとするイエスの弟子たちの言葉を全体として受け取って自分の生き方に反映させることができるように、み言葉は宣べ伝えられなければならないのです。

 

B. 教会の健康を保つ  (3-5)
1)  いつでもある危険 (3, 4)

 

3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。

 このような傾向は今でも見ることができます。信仰によって癒される、お金持ちになれるというテーマはいつの時代でも人気を集めます。現代の教会を見ていると、堅実な教会も多くありますが、イエスという中心から、あらゆる方向に遠く拡散してしまっている教会も多いのです。社会問題に取り組む、恵みを求める、病気の癒しを求める、預言を求める、聖霊に満たされる、教会音楽を洗練させる。その一つ一つは悪いことではありません。しかし、これらのことが中心になってしまうということが起こります。イエスが中心ではなくなってしまうのです。それではイエスに従って歩んでいることにはなりません。教会は自己実現のために自己啓発セミナー会場、良い音楽を聴くコンサート会場、ためになる話を聞く講演会場になってしまうのです。そのために、いろいろな活動のバランスをとるということでもありません。イエスに聞き、イエスに従う時に、すべきこと、する必要のないことは明らかになります。

2)  しかし私たちは (5)

 

5 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 

 私たちは、そうではありません。しかしそうならないように、真理であるイエスが支配するところであるように、注意深くあるべきです。イエスは私たちをどのような教会にしたいと思っておられるのでしょう?私たちの果たすべき務めとは何でしょう?イエスは神様の愛の支配をこの世界に確立するために来られました。教会をご自身の体とされたのは、まずここにイエスの愛が実現するためです。私たちが神の愛を知り、反映する者となる時に、それはみなさんの周りの人々に伝わります。目指すことは、大きくなることでも、多くの働きを担うことでも、宣教師を送り出すことでも、教会を増やすことでもありません。それらは結果としてついてくるものでしかありません。素晴らしい家庭を維持するための方法は一つだけです。それは皆が喜んで家族に仕えることしかありません。教会、キリストの体の一部であるこの家族でも同じです。それは教会を楽しいイベントで満たすことでも、充実したセミナーを提供することでもなく、ただ家族として愛し、愛されることが日常となるように努めることで実現します。それは時として犠牲を払う、与える、耐え忍ぶといった毎日毎日の地道な務めです。それは日曜日の朝だけ、集まって聖書の話を聞き、歌う時だけがイエスに従う者の生活ではないということです。日々の歩みの中にこそ、イエスに従う者の活躍する機会があるのです。そこで問われるのはあなたのできることであるよりも、あなたの存在です。

メッセージのポイント

神様は私たちを通して世界に愛を実現させようとしています。神様の愛だけが、すべての人に正義、平和、喜びをもたらすことができるのです。私たちは神様の愛に触れ、この神様の働きを喜んで担っています。私たちが神様の意思から離れてしまわないように、神様の言葉が与えられています。この神様の言葉が正しく伝えられなければ、教会は健康を保つことができません。神様の言葉によって自分たちの霊的な健康を維持して行きましょう。

話し合いのために

1) 御言葉を宣べ伝えるとはどのような事ですか?

2) ユアチャーチを健康に保つためにあなたは何ができますか?

子供達のために

聖書の言葉、特に福音書に記録されているイエスの言葉の大切さ伝えてください。お家でも、お友達の間でもみんなが仲良く、愛、喜び、平和に過ごすためには、自分たちの意志や常識だけでは十分ではありません。何よりも神様の意思を知ることが大切です。それをできるだけ正確に受け取るために、神様は私たちに聖書を与えました。