2016/7/24 神様の権威は霊の砕かれた人と共に

池田真理 (ルカ19:45-20:19, イザヤ66:1-2)

 

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神様の権威は霊の砕かれた人と共に

 今日はルカ19:45から20:19まで、少し長めですが読んでいきたいと思います。前回、イエス様がエルサレムのために涙を流したという一節がありましたが、今日の箇所ではイエス様は怒っています。まず19:45-48を読みましょう。

A. イエス様の怒り(19:45-48)

19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

 イエス様がエルサレムの神殿の境内で、そこで商売をしていた人たちを追い出したという話は四つの福音書全てに記録されています。特にヨハネの福音書では、イエス様は縄で鞭を作って商人たちを追い立てたと書いてあります。イエス様がそういうふうに実力行使で何かをやめさせるというのは珍しいことです。どうしてここまでイエス様が怒りをあらわにしたのか、考えていきたいと思いますが、その前に神殿の意味を確認しておきたいと思います。

1. 神様は神殿を要求したことはない (サムエル記下7章、列王記上9章、イザヤ66:1-2)

  イスラエルの歴史の中で、神様が自分のために神殿を建てるように要求したことはありません。神殿にこだわったのは人間の方です。まず、ダビデが自分が王になった時に神様のためにもきちんとした家を作りたいと願いましたが、神様はそんなことは今まで誰にも頼んだことがないと言います。でもダビデに悪気があったわけでもないので、神様はその願いを聞いて、ダビデの子ソロモンがその願いを引き継ぎました。ソロモンが神殿を完成した時、神様ははっきりと告げています。ソロモンとその子孫たちが神様に聞き従うなら神殿は神殿であり続けるが、そうでないなら、神殿は崩され廃墟となる、と。(これらのことはサムエル記下7章と列王記上9章にあります。)つまり、神殿は単なる建物であって、重要なのは人々の心だということです。イザヤ書66章ではこう言われています。

イザヤ66:1-2 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。

 このイザヤの言葉にある通り、神様が目を留めるのは「苦しむ人、霊の砕かれた人、神様の言葉におののく人」です。ですから、イエス様が神殿で怒ったというのは、何か神殿が神聖で冒してはいけない聖域だから、そこで世俗的なことをしてはいけない、という意味で怒ったのではありません。神様は神殿にだけ住まわれるのではなくて、一人一人の心に住まわれる方です。
では、神殿そのものに意味がないのなら、なぜイエス様は激しく怒ったのでしょうか。

2. イエス様が怒った理由

まず考えたいのは、神殿でどういう商売がされていたかということです。ルカによる福音書では、イエス様が子供の頃に両親と一緒に神殿に巡礼に来たということも記録されています。当時の人たちは、エルサレムに年に一度巡礼して、神殿で犠牲の捧げ物をすることになっていました。犠牲の捧げ物というのは、動物を祭壇の上で焼いて神様に捧げるということです。でも、徒歩で長旅をしてくる巡礼者たちが、捧げ物にする動物をずっと連れてやってくることは不可能です。そこに目をつけた人たちが、神殿の境内で捧げ物用の様々な動物を売るようになりました。旧約聖書には、犠牲にする動物は各々の経済力に応じてで良いとされています。羊やヤギが一般的ですが、貧しければ鳩でも良かったのです。よく観光地ではちょっとした日用品でも法外の値段がついていたりしますが、そういうことがエルサレム神殿でも起こっていたとは十分考えられます。人々の信仰心につけこんで、利益をあげる人たちがいたということです。更に悪いことには、そういう人たちに商売をすることを許可して、そこからお金を得ていたのは神殿の祭司たちでした。また、神殿の敷地内ではそこでしか使えない固有の貨幣が使われていて、中で売り買いをするためには両替が必要でした。神殿の祭司はそういう両替人たちともつながっていたと考えられます。ですから、神殿の境内で日常的に行われていた商売というのは、神殿は聖なる場所だからという名目のもとに正当化されていた不正です。
イエス様は、これが全て神様への冒涜であり、人々の偽善だということを見抜いていました。神様こそが唯一の侵してはならない聖なる方なのに、それが神殿という建物に注目が集まった途端に人々の信仰は崩れ始めていたということです。祭司たちは神殿を守ると言いながら、実は自分たちの特権を守っているだけでした。また、巡礼に訪れていた人たちも、そこに疑問を感じる人たちもたくさんいたはずですが、中身の伴わない形式だけのものになってしまった人たちもいました。イエス様が怒ったのは、こういう偽りの信仰です。神殿を守っていればいいのか。巡礼をすればいいのか。犠牲の捧げ物をすればよいのか。そうではないだろうとイエス様は言われました。神様の名前を自分の利益のために利用することが、神様に対する一番の侮辱です。ペテロが裏切っても怒らなかったイエス様がここで激しく怒りをあらわにしたのはそのためです。

さて、もう一つここで注目したいのは、これまで登場してこなかった祭司長と呼ばれる人たちが登場していることです。今までイエス様の敵といえばファリサイ派の人たちでした。でもここから先、エルサレムでの出来事の中ではファリサイ派の人たちはすっかり影を潜め、この祭司長たちというのがイエス様を攻撃するようになります。これは、ここまでもお話ししてきた通り、エルサレムでの宗教的・政治的権力を握っていたのがこの人たちだったからです。彼らはユダヤ人の中でも代々祭司の名門の家柄で、特権階級に属していました。彼らにとってイエス様は、自分たちが当たり前に持っていた利権を脅かす存在だったので邪魔でした。これから読んでいく彼らとイエス様のやりとりを読むと、彼らの主張は矛盾していて、端から見ればそれに気が付かないのが不思議なくらいです。彼らはなぜか自分たちが絶対に正しいと思い込んでいます。私たちはつい、彼らと自分は違うと思ってしまいますが、でもこれが私たち全てに共通する人間の罪の性質なのだと聖書は教えています。20:1-8を読んでいきましょう。

B. 自分は神様の側にいるという勘違い
1. 特権者の利己心(20:1-8)

20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 権威が問題になっていますが、それは祭司長たちにとって権威が一番の関心事だったからです。イエス様は自分が神様の権威によって来た者で、神様の代弁者であると宣言していました。イエス様を慕う民衆はそれを喜んで信じていましたが、祭司長たちは信じていません。彼らにとっては、イエス様もヨハネも天からの権威を持っているはずがなかったのです。なぜなら、自分たちこそがその権威を与えられていると信じて疑わなかったからです。彼らは最初からヨハネの言うこともイエス様の言うことも聞こうとしていません。なぜなら、ヨハネもイエス様も、彼らのようにエルサレム神殿に仕える祭司でもなく、律法を勉強した学者でもなく、ただの田舎者としか思えなかったからです。正しいことを教えていようと、民衆に好かれていようと、それは二の次で、一番重要だったのは、彼らの基準に従った権威があるかどうかでした。
なぜここまで彼らは偏ってしまったのでしょうか?その理由は私たちと無関係ではありません。恐らく、彼らは長く特権を持ちすぎたのです。祭司としての特権、学者としての特権。それは人々を自分の命令に従わせることができる権力を伴います。それは人々がより良く神様に従うことができるように助けるために、彼らに神様が与えたものでしたが、長くその座に座り続けて、彼らは自分たち自身が神様であるかのように勘違いし始めてしまったのです。表立って自分を神様だと言い張らなくても、自分こそが一番神様の意志をよく分かっていると思い込めば、同じことです。私たちも、教会としても個人としても、いつもこのことに気を付けていなければいけません。自分たちがこれまでやってきたやり方が一番とは限りません。自分とは異なる人々が正しくて、自分は間違っているかもしれません。私たちはそれぞれ色々な意味で特権を持っています。日本人であるというだけでも特権です。車椅子を使う必要がないというのも特権です。イエス様を他の多くの人より先に知ったということも特権です。そこに安住して、それが当たり前のこととなってしまえば、私たちはいつでも、この祭司長たちと同じように、自分は神様の側にいると勘違いして、実は神様の敵になってしまうことが起こります。それがいかに簡単に起こるか、何度繰り返されてきたか、イエス様はたとえで話されました。

2. 繰り返されてきた歴史(20:9-16)

9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

  旧約聖書には何人もの預言者が登場します。預言者の役割は人々の心を神様の方に向き直させることです。旧約聖書の中身を一言で言うなら、神様を拒む人々と何度でも呼び戻そうとする神様の歴史です。呼び戻されてはまた離れ、また呼び戻されての繰り返しの歴史です。イエス様はその最後の預言者として、そしてただの預言者ではなく、人となられた神様としてその歴史の中に来られました。神様は、私たちがいかに簡単に神様の愛を拒んで自分中心に生きる者か、いやというほど分かっていましたが、私たちのことをあきらめなかったということです。そのためにイエス様は、私たちのために自分の命を捧げて犠牲にまでなりました。同じ間違いを犯し続けてきた人間のために、神様自身が苦しむことを選ばれるという、あってはいけないことが起こりました。でも、そこから新しい歴史が始まりました。私たちの救いようのない罪の性質は変わらなくても、神様と私たちの関係は永遠に切れないように変えられたのです。イエス様の言葉の続きを読んでいきましょう。

C. 隅の親石の歴史〜教会の歴史(20:17-19、詩篇118:22-23、使徒7:46-53)

17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

今日は最初に、神様が顧みるのは「苦しむ人、霊の砕かれた人、神様の言葉におののく人」だと確認しました。そして、神様が一番嫌われるのはその逆で、自分を神様の側に置いて正しいと思い込んでいる人だとお話ししました。でも、自分が正しいと勘違いしないように注意して、砕かれた霊でいるとは具体的にどういうことなのでしょうか。その答えが、この「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」という言葉にあります。私たちは一生、神様を忘れて裏切る罪の性質から逃れることはできません。でも同時に、イエス様によって既に罪が赦されていることも知っています。だから、私たちは一生自分の罪を背負って、失敗を繰り返す落胆とそれでも赦されている喜びとの間で生きることになります。不安定なようですが、それで良くて、それが健康な信仰のあり方で、教会のあり方でもあります。私たちはいつでも、神様によってより良いものに作り変えられて、何度でも起き上がらせていただくことができます。私たちはイエス様を忘れて捨てて、自分勝手に生きようとして失敗しても、そのためにこそイエス様は来てくださったからです。17節は詩篇118:22の引用です。23節と合わせて読んでみます。
詩篇118: 22-23 家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業。わたしたちの目には驚くべきこと。

 イエス様という隅の親石の上に、多くの人がイエス様に倣って自分を捧げて石を積み重ねて今の教会があります。それは隅の親石の歴史と言えます。多くの人に拒絶されても、それによって命を失うことになっても、伝え続ける人たちの歴史です。使徒言行録にはそういう人たちのことが多く書かれています。特にステファノという人の最期は、今日読んだところとそっくりです。使徒7章をぜひ読んでみてください。そしてそのステファノの殉教の場面最後に登場しているのがパウロです。まだイエス様に出会う前の迫害者パウロです。パウロもその後たくさんの失敗や衝突を繰り返しながら、最後は殉教の死を遂げました。私たちはそこまでの迫害に遭うことはありませんが、イエス様からずっと引き継がれてきたこの歴史に連なることができるように、いつも心に神殿を持ち、イエス様に導いていただきましょう。間違いを見分けることができるように、耳をすましていましょう。

メッセージのポイント

神様は私たち人間が自分の利益のために神様の名を使うことを何よりも嫌われます。イスラエルの歴史も教会の歴史も、この間違いを繰り返してきました。私たちは神様を礼拝しているつもりで、いつの間にか教会の慣習や自分がそこで与えられている特権を優先してしまいます。それは全て私たちの罪の性質によります。イエス様はそのために命を捧げて下さいました。私たちは一生失敗を繰り返して落胆しますが、その度に赦された喜びを味わい、神様に作り変えられていきます。それが健康な教会であり、一人一人の信仰です。

話し合いのために

1) イエス様はなぜ怒ったのでしょうか?
2) イエス様に喜ばれる教会(人)はどういう教会(人)ですか?ユアチャーチがもっと神様に喜ばれるためにすべきこと(やめるべきこと)は何でしょうか?

子供たちのために

ルカは長くて難しいと思うので、使徒7:44-53(ステファノの説教)・サムエル記下7章・列王記上9章などを使って下さい。神様は、神殿を建ててほしいとは一度も要求しませんでした。それは一人一人の心に神様が住んでいることが一番大事で、立派な建物や儀式や祭司階級(偉い人)などは必要ないからです。人間的にはそういうものに憧れてしまうこともありますが、それは危険です。神様が心に住んでくださっていることを忘れて失敗することは大人でもたくさんあります。そんな大人の失敗談を話して、それでも大丈夫で、それが健康な信仰だと教えてください。