2016/10/09 神様からの名誉を求めよう

池田真理
(ルカによる福音書 20:45-21:4)

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神様からの名誉を求めよう

 今日読んでいく箇所では、前半と後半で違うタイプの人たちが出てきます。前半は「こうなってはいけない」という悪い例、後半は見習うべき良い例です。でも実際の私たちは、そういう風にきれいに、良いグループと悪いグループに分けることはできません。誰にでも良いところと悪いところがあり、良い時もあれば悪い時もあるからです。一番大切なのは、神様の視点と私たちの視点は違うということです。私たちが良いと思っていても、神様から見れば間違っていることもあり、逆に私たちが気に留めていなくても、神様から見れば最上級に良いこともあるということです。自分の視点と神様の視点を合わせていく作業は、一生掛かりの地道な作業です。一人一人が神様によく聞き、試してみて確かめていくしかありません。今日のメッセージはそのヒントにすぎません。では、前半を読んでいきたいと思います。悪い例の方です。


1. 人からの名誉 (20:45-47)

民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

a. それを求め続けるなら、神様を求めなくなる

 こういう人が自分の周りにいたら、皆さんはどう感じますか?「長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」嫌な上司の顔が思い浮かぶ方もいるんじゃないでしょうか?イエス様に言われるまでもなく、そんな人は相手にしたくないと誰でも思うと思います。それでもイエス様がわざわざ注意しているのには理由があるはずです。それは私たちが、社会的地位や人からの評価に惑わされやすいからです。おそらく弟子たちも律法学者に惑わされてしまうことがあって、それをイエス様は注意しています。
律法学者は聖書の知識が豊富でした。イエス様を信じて従った最初の人たちは、漁師や徴税人や女性たち、いわゆる学のない人たちです。彼らは社会的地位も低い人たちです。彼らにとって、律法学者に立ち向かうということは簡単ではなかったはずです。だから、イエス様は律法学者が見せかけばかりであることを示しました。彼らは偉いから長い衣を着るのではなく、偉いと思われるために長い衣を着るのだということ。彼らが人々に挨拶されたり、良い席に着いたりしようとするのは、それで人々の反応を確かめているのだということ。やもめの相談に乗っているふりをして、彼らから相談料を巻き上げることが目的だということ。つまり、彼らにとっては、自分の立場を守ること、人から尊敬されることだけが重要で、弱者のことも神様のことも見ていないのだということです。
なぜそんなことになってしまうのか、その理由は、立場に関係なく、人間なら誰でも持っている性質に関係があります。私たちは誰でも、好かれたい、認められたい、という願望を持っています。その願望は本当は神様にしか満たすことはできません。でも、私たちは目の前の人間がその願望を満たしてくれるように錯覚してしまいます。人から評価されることは、神様から評価されるよりも分かりやすくて気分がいいので、そっちばかりが気になるようになってしまいます。そして、そのうち神様からの評価はどうでもよくなって、人からの名誉だけを求めるようになります。でも、人からの名誉は変わりやすく不安定なので、いつも自分がどう思われているか確かめずにはいられません。また、自分より優れた人が現れれば自分の立場が危うくなるので、そうならないように必死になります。そうやって、常に競争を続け、決して満たされることはありません。

b. 牧師に気を付けよう!

このことは、すべての人が気をつけなければいけないことですが、牧師は特にそうです。牧師が人からの名誉ばかり求めるようになれば、自分を敬ってくれる人だけを大切にして、そうでない人たちのことは排除するようになります。そして、自分が神様から離れるだけではなくて、人を神様から離れさせてしまいます。イエス様は47節で、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われていますが、これは現代にあてはめれば牧師のことと言えます。私たちがそうならないように、気を付けていて下さい。今は大丈夫でも、これからもずっと大丈夫とは限りません。人に認められたい、好かれたいという思いはいつでも大きな誘惑になります。皆さんと一緒に、ただ神様だけを見上げていけるように、祈っていてください。

それでは後半に入っていきたいと思います。前半は私たちが陥ってしまう間違いについてでしたが、後半は反対に私たちが目指すべき方向が示されています。

 


2. 神様からの名誉

21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。

a. 人の目には目立たなくても

 レプトン銅貨というのは、当時の労働者の1日分の賃金の128分の1だそうです。今の価値で考えると、100円にも足りません。それを二枚ですから、このやもめの献金がいかに少なかったかが分かります。でも、イエス様は「このやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われます。イエス様が「たくさん」と言われているのは、金額でないことは明らかです。では何かというと、やもめの神様に対する愛です。多額の献金をしていた金持ちの中にも、神様を純粋に愛していたからそうしていた人もいたかもしれません。でも、イエス様が注目しているのは、やもめの献金は、自分の生活を犠牲にして神様に捧げたものだということです。その日自分が食べるものがなくなっても、そのお金を神様に捧げた態度です。それが、この人がどれほど神様を愛していたかを示しています。
これはお金のことだけではありません。私たちは自分の時間や労力を神様に捧げることができます。そこで重要なのは、私たちが人と比べて何ができるかできないかではありません。人から見れば決して目立たない働きだとしても、神様にはそんなことは関係ありません。誰も注目していなかったやもめをイエス様がしっかり見ていたように、私たちのことも見ていてくださっています。この場にイエス様がいなければ、このやもめの行動は誰の記憶にも残ることはなかったでしょう。私たちがすることも、誰にも覚えられないかもしれません。それでも、神様の記憶に残っていればそれでいいのです。

b. 私たちを満ち足らせる唯一のもの

 実はこれが私たちを満ち足らせる唯一の方法です。人々に覚えられるためではなく、神様に覚えられることに集中するということです。やもめは、自分の献金が少ないことを知っていたはずです。でも、それを神様は喜んでくださるはずだと確信していました。そうでなければ、自分の生活を犠牲にすることはできません。人からどう思われようと、人と比べてどうであろうと、神様が喜んでくださればそれで良かったのです。
私たちには、このやもめの確信よりも確かな確信があるはずです。イエス様は、私たちが何もする前に、私たちのために命を捧げてくださった方です。たとえ人には認められなくて、好かれなくても、イエス様は私たちをこのままで受け入れて、認めて、愛してくださいました。だから、私たちは神様に認められるために何かをする必要はありません。忘れられないように頑張る必要もありません。自分が優れた人間だと証明する必要もありません。私たちはただ、神様が私たちのことをすでに知ってくださっていることに感謝して、生きていくだけです。イエス様がいるから、私たちは何があってもなくても、誰に何を言われても、満ち足りていることができます。この確信があって初めて、私たちはこのやもめのように、喜んで自分の人生を神様に捧げることができます。最後にこのことについて付け加えておきたいと思います。
神様のために自分の生活を捧げると聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?それは断じて、牧師になるとかフルタイムミニストリーをするとかという意味ではありません。それも含みますが、神様に自分を捧げるということは、まず第一に、神様を愛し、神様が自分に与えておられる人間関係の中でその人たちを愛するということです。目に見える人々を愛さないで、神様を愛しているとは言えません。あなたを必要としている家族や友人がいるなら、教会の活動に加わるよりも、そちらを優先してください。職場や学校で、人と競争するのではなく人を愛することはとても大変なことです。でも皆さんの働きを神様はしっかり見ていて、喜んでくださっています。神様が愛していない人はおらず、だから私たちも愛さないでいい人なんていません。今、誰かとの間に問題を抱えているなら、どうぞそれをしっかり神様の前にさらけ出して、どうすれば良いか、問い続けてください。たとえ私たちが許せない相手でも、神様はその人のことを愛していると知っていれば、神様は私たちの心を変えてくださいます。
一人一人が神様のために払う犠牲は違います。違うべきですし、私たちはそれをお互いに比べることはできません。全ては神様の前にあり、究極のところは一人一人と神様の関係の中でしか分からないことです。でも、私たちはそれをたった一人でやるのではなく、聖霊様が私たちといつも共にいて導いてくれます。また、同じ方向を向いている仲間も与えられています。神様を愛して、人を愛することができるように、今日も共に神様を見上げて、神様に満たしていただきましょう。


メッセージのポイント

私たちは誰でも人からの名誉を求める傾向を持っています。人に認められたいという願望は自然なものですが、それにばかり集中するなら、終わりのない競争を続けることになり、誰も幸せになれません。神様からの名誉を求めましょう。そうすれば、何かが足りなくても満足でき、他人と競争するよりも分け合う喜びを知ることができます。

話し合いのために

1) あなたは人からの名誉を求めていますか?
2) なぜイエス様は、やもめの献金が誰よりもたくさんだと言われたのですか?

子供達のために

後半の21:1-4だけを読むのでもいいと思います。なぜこのやもめが、その日自分に食べるものがなくなっても神様に捧げることができたのか、みんなで考えてみてください。子供たちにとって一番大切なものでも、あげるのが惜しくない相手はいるでしょうか?このやもめにとって、それが神様でした。