2016/10/30 主の名を信頼する

(詩篇20編 )  永原アンディ

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主の名を信頼する

A. 互いにこう祈り合おう

聖書は神様の言葉です。しかし聖書をよく読んでいれば神様の言葉をちゃんとキャッチしているかといえば、そう言い切ることはできません。いくら聖書をよく読んでいても、現実の生活の中で生きる力、喜びに成っていないならキャッチしているとは言えません。今朝は皆さんと、もっと十分に神様からの言葉をキャッチできるように一緒に学んでいきたいと思います。最初に5節前半 (NIV: 4a) までをお読みします。

1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
2 苦難の日に主があなたに答えヤコブの神の御名があなたを高く上げ
3 聖所から助けを遣わしシオンからあなたを支えてくださるように。
4 あなたの供え物をことごとく心に留めあなたのささげるいけにえを快く受け入れ〔セラ
5 あなたの心の願いをかなえあなたの計らいを実現させてくださるように。
6 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ我らの神の御名によって旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところをすべて実現させてくださるように。

 

1)執り成す祈り (1-3)

それでは前回の祈りの部分と比較して見ましょう。これが前回の祈りです。

知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められわたしは完全になるでしょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主 (19:13-15)

これは”私を”清くしてくださいという祈りです。神様とのホットラインを維持するために不可欠です。そして今日取り上げる祈りはこれとは対照的です。ダビデはここでは、誰かのために、その人と神様との関係のために祈っています。このような祈りを「とりなしの祈り(Intercession)」と呼びます。あまり使わない言葉ですが「誰かの平安、幸福のことを神様にお願いする祈り」です。ただし祈りといっても、ここでは直接神様に向かって祈っているわけではありません。表面的には、その誰かに向かって言葉を発しています。そこにいるのは「私とあなた」です。しかし実は神様はその二人の只中にいます。そして神様はあなたがその人に発した言葉を祈りとして受け取ってくださいます。これはちょうど、毎回の礼拝の最後にする祝福(Benediction)や手紙の最後に書く「神様の祝福が豊かにありますように」と同じ形です。人を祝福することは牧師の特権ではありません、礼拝や、手紙の最後に形式的にするものでもありません。その人のいないところでいつでも祈っているにしても、時々互いに祝福することは素晴らしいことです。私たちがこの詩編を読んで勇気を与えられるように、私たちは互いにこのとりなしの祈りを祝福の形で言い表してください。この部分の後半4-6 (3-5) をもう一度読みましょう。

2)私たちにとって勝利とは何か (4-6)

4 あなたの供え物をことごとく心に留めあなたのささげるいけにえを快く受け入れ〔セラ
5 あなたの心の願いをかなえあなたの計らいを実現させてくださるように。
6 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ我らの神の御名によって旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところをすべて実現させてくださるように。

この部分には私たちが誤解しやすい要素が含まれているので、注意深く読んでゆきましょう。a. 神様があなたの献金を喜んで受け取り b. その対価としてあなたの望みを叶え c. 敵をやっつけて、あなたの思い通りになりますように!例えば、ライバルがみんな倒れて、あなたが高いポストにつけますように。 ということでは全くありません。神様はあなたの欲望のための自動販売機ではありません。神様には神様の計画があります。あなたに最もふさわしい計画です。あなたを愛し命を与え、よりよく生きてもらいたいと望んでいるからです。供え物の多い少ない、いけにえの種類が問題なのではありません。献金の額で神様をコントロールすることはできません。もちろん心の願いといっても、それが邪悪な願いであれば、神様はいくら積んでも聞いてはくださいません。あなたの清い願いを聞いてくださるのです。ですから前回お話ししたように、心の願いをいつも清めていただく必要があるのです。
そこで、あなたの勝利とは何でしょう?それはどんな状況の中であれ、あなたの魂が、神様の与えられた安らぎの中に憩えるということです。ダビデは優秀な戦士でもあったので、その比喩はしばしば戦争を思わせます。ここでも、勝利の叫び、戦旗がひるがえる、という勇ましい表現になっていますが、私たちの勝利とは決して敵を打ち倒す興奮や陶酔ではありません。敵は外側に存在するのではなく、あなたの内に働いて、あなたの魂を神様から引き離そうとする力です。平安を奪う、罪の力、死の力です。敵は、あなたと何か重要な問題において異なる考えを持つ人々のことではありません。LGBTQに関して、妊娠中絶に関して、更に信仰自体に関して、あなたと鋭く意見が対立していたとしても、その人々を自分に都合のいい聖書の言葉を使って攻撃する権利はないのです。悲しいことに世界中で、自分はイエスに従っていると信じながら敵ではない相手を攻撃し、実際には自分がイエスから遠く離れてしまっている人々が多くいます。あなたはどうか本当の敵を知り、本当の勝利をつかんでください。


B. イエスの考えに従おう

1)私たちが信頼するのは (7, 8)

7 今、わたしは知った主は油注がれた方に勝利を授け聖なる天から彼に答えて右の御手による救いの力を示されることを。
8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが我らは、我らの神、主の御名を唱える。

 「イエス・キリスト」それはキリスト家のイエスさんという意味ではありません。救い主(キリスト)であるイエスという意味です。新約聖書のギリシア語が元になった言葉ですが、旧約聖書のヒブル語ならメシア(メサイヤ)で、元の意味は「油を注がれた者」という意味の言葉です。古代イスラエルでは、油を注がれるのは、王となる者でした。ダビデ自身は軍事的な意味でも優れた王だったわけですが、そのダビデが、真の王がどのような者であるかを歌っています。究極的な(ultimate)の王は、本当の敵に勝利して、本当の救い、すなわち人々に神様との本来の関係を取り戻させる者だというのです。皆さんは誰を想像しますか?イエス・キリストですね。その通りです。私たちが信頼を置くのは私たちの戦車、馬、つまり手の内にあって誰かをやっつけるための道具、例えば財産、知力、腕力、精神力、権力、経験ではなくイエスです。それが、イエスに従ってゆく理由です。従ってゆくにあたって、イエスはあなたに財産、知力、腕力、精神力、権力、経験といった武器を持って来なさいと言われたでしょうか?そう言われなかったどころか、むしろそれらがイエスに従うのに邪魔になるということさえイエスは示唆しています。

マルコ 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分を捨てるとは、自分の持っている頼りにしたくなるようなものには頼らないということです。そしてただ恵みによって赦されて、イエスと一緒に歩める喜びを感じながら、イエスだけを頼りにしてついて来なさいとイエスは招かれているのです。

b. 彼らと我ら (9, 10)

9 彼らは力を失って倒れるが我らは力に満ちて立ち上がる。
10 主よ、王に勝利を与え呼び求める我らに答えてください。

 ダビデの将軍としてのセンスはここでも強烈な比喩となって表現されています。しかしここをナイーヴに誤解して受け取ってはいけません。誤解している人は、先に触れた間違った仮想敵(Imaginary enemies)相手にドンキホーテ(Don Quixote)のように日々戦うことがキリスト教徒の使命だと信じています。多くのキリスト教指導者が創世記に書かれている神様のなさったことを忘れ、イエスの言葉と行いを忘れ、クリスチャンの使命は、クリスチャン対異教徒、無神論者、同性愛者、進化論者、共産主義者連合軍、中絶容認派との戦いに勝利することだと思っているのです。神様の目から見るなら、地球上に存在しているすべての人が、ご自身と似たものとして作られた愛すべき存在です。私たちにとって、敵としての彼らは存在しません。すべての人が「我ら」と呼ぶべき存在です。もちろん様々な我らを隔てる壁は無数にあります。しかし全ては神様ではなく、人が作ったものです。人種の壁、宗教の壁、貧富の壁、性指向性の壁・・・・・・それらは間違った敵から自分たちを守るための壁です。イエスは壁を立てるためではなく、壊すために来られました。それなのに、イエスのために高い壁を作るんだと頑張っている人が沢山いるのです。本当の敵は内なる罪だと言いました。私たちを隔てる壁もこの内なる罪の結果です。これらの壁は、本来「我ら」というべき人々を隔て、「彼ら=敵」と想像させて、私たちをドンキホーテにしてしまいます。ドンキホーテは喜劇ですが、私たちがそれを続ければ結末は最悪なものになるでしょう。本当の敵は恐ろしく巧妙です。神の被造物を仲違いさせ、自分は何の手も下さずに世界を破壊させようとしています。まさにサタンと呼ぶのにふさわしい存在です。しかし、私たちは恐れる必要はありません。私たちの王イエスは、決してサタンに勝利を許しません。私たちは互いにとりなしの祈り、祝福をし合い、イエスと共にすべての壁をぶっ壊す仕事を生かされている限り続けてゆきましょう。


メッセージのポイント

とりなす祈りの習慣を持ちましょう。それは祈りによって、神様だけではなく人々とつながること、人々と神様をつなげることです。それは結果として、あなたと神様の距離を縮めることにもなります。イエスに従っていると思いながら、実は全く違うことをしているということにならないように、前回の「清さを求める祈り」とともにおぼえてください。

話し合いのために

1) 主の名を信頼するとはどういうことでしょう?
2) 私たちにとって彼らとは?

子供達のために

前回の「清さを求める祈り」を思い出させてください。そして、今回の「とりなす祈り」のことを対比させて教えてください。「清さ・とりなす」という言葉は必要ありません「自分が神様に喜ばれるように」「誰かに神様の助けがあるように」祈る、というふうで良いのです。手を組んで、目をつぶって、といった形式ではなく、いつでもどこでも、ちょっとした時に、声を出しても出さなくても、気軽に神様に話しかけようと勧めてください。