2017/1/22 神様の怒りとは何か?

永原アンディ
(詩篇21:9-14)

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神様の怒りとは何か?

9 あなたの御手は敵のすべてに及び右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
10 主よ、あなたが怒りを表されるとき彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ
11 その子らは地から子孫は人の子らの中から断たれる。
12 彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ陰謀をめぐらすが、決して成功しない。
13 かえって、あなたは彼らを引き倒し彼らに向かって弓を引き絞られる。
14 御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

自然災害や事故や病気、他国による侵略などを神様の怒りの表れとする考え方は、ユダヤ教、キリスト教に限らず、多くの文化の中で長く続いてきました。2011年3月に東北地方を地震と津波が襲った時、ある牧師は「ついに偶像礼拝の国に神の怒りが降った」のだと言いました。本当に神様が怒ってそれが起きたのでしょうか?神様は人間のように怒るのか?人の怒りとはどう違うのか?その怒りは誰に向かうのか?一緒に考えてみましょう。


1. あなたの敵は神様の敵?(9)

9 あなたの御手は敵のすべてに及び右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。

先週取り上げた、この21編の前半には王という言葉が何回も出てきました。今日の部分には一つも出てきませんが、この詩は王であるダビデの「神様についての考え」です。ユダヤの王ダビデにとっては、自分の敵は神の敵というのは当たり前のことでした。ダビデにとって神様は、ユダヤに敵対する他民族を自分とともに戦って勝利する民族の神だったのです。彼らは自分たちが特別に選ばれた民だと考えていました。
創世記は12章から大きくその内容が変わります。それまでは世界の創造から始まり、どのように人類が世界に広がっていったかを描いていますが、12章に入るとフォーカスは一人の人、アブラハムに向けられます。そしてそこからユダヤの歴史は始まるのです。より正確に言うなら、民族を選んだというより、アブラハムとその子孫を選び、彼らがユダヤ民族となったのです。アブラハムの信仰を神様は認めたのです。ダビデの「神様は私が敵と戦うときはいつも味方でいてほしい」という気持ちはよくわかりますが、それでは神様はローカルな神様でしかありません。創世記の神様は「世界の創造者」です。それは、アブラハムという名前にもよく表されています。アブラハムは75歳の時、初めて神様に呼びかけられました。そのときはアブラム(民の父という意味)という名前だったのです。ところが99歳になった時、神様は名前をアブラハムに変えなさいと命じます。ラとムの間にハを入れるとその意味は「多くの国民の父」となります。この違いは大きいのです。アブラムのままなら「私たちは神様の民、敵は異教徒、異邦人」だったのですが、神様の命じたアブラハムなら、人類は例外なく「私たち」であり、人類の中に敵はいないことになります。

この神様の意思を理解できなかった民に、神様はイエスという一人の人としてご自身を表され、真の敵を教えてくれました。それは罪です。神様に背を向けることです。「ならやっぱり、神様はプライドを傷つけられて怒り、それを罪として、それでも考えを変えない者の敵となるのか?」と誤解しないでください。人が自分を守ってくれる神様に背を向けるなら、自分で自分を守るしかありません。自分で強くならなければならず、自分で豊かにならなければなりません。そこに争いや、強欲な経済活動が生活のあらゆるレベルで起こります。個人間、小さな集団間、民族間、国家間で起こり、悲劇が起きるのです。自然災害にはまだわからないことが沢山ありますが、そこで被害を大きくしたのは人間社会の都合です。津波の記憶も持っていた海沿いに、一度問題が起きたらコントロールできなくなる発電機を置いたのは人間です。大雨が降ったら土石流(flood of rocks and mud)が襲うことがわかっているところを宅地として開発したのも人間です。自分の利益のために環境を破壊し、それに気付いた人がやめようと言っても、例えば「地球の温暖化なんて嘘だ」と自分の利益を守るために叫び続ける人がいて、それについてゆく人が大勢います。その一方で地球の反対側では飢餓、干ばつ、洪水で苦しむ人がいます。
私たちが立ち向かうのは、このようなことの背後で働く「罪」です。人が神様に従って、心の内側の罪と戦い、人々にも罪という真の敵と向かい合うことを伝えること – それが「罪との戦い」です。十字架によって罪は赦されたという意味は、罪の性質が消え去ったということではありません。そうではなくイエスと共に戦うことを許されたということなのです。


2. 人の怒りと神様の怒り(10)

主よ、あなたが怒りを表されるとき彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ

敵のことがはっきりすれば、神様の怒りについても誤解せずにすみます。まず人の怒りと神の怒りとは大きく異なることを心に留めておきたいと思います。聖書は人の怒りを正しいこととはしていません。人の怒りは神の義を実現しない (ヤコブの手紙1:20) というのが人の怒りについての聖書の基本見解です。一方で旧約聖書には神の怒りがいたるところで表されています。新約聖書でもパウロが、不義に対して神様の怒りが表されると警告しています。誤解しないように注意深く読んでいかなければなりません。神様の怒りは、あなたに立ち向かう敵ではなく、誰であっても、そして特に自分は神の民だと思っている人にさえ不正義、不誠実を起こさせる「罪」なのです。
人間の言語は例外なく特定の文化、社会、歴史の中で発展したもので、それらを超えた概念を説明するには不十分です。様々な出来事の要因が今より分かり難かった時代には、理解できない事象を神様の怒りとしか表現できなかったことは仕方ないことでした。しかも旧約聖書の人々はまだイエスのことを知らなかったのですから、旧約の時代の人を赦してあげなければなりません。それより問題なのは、イエスの言葉を知っているのに、イエスを神様と信じていると口では言っているのに、旧約時代の人々のように、罪とではなく人と戦っているクリスチャンです。
一見神様の怒りの表れに見えるような出来事のほとんどは、罪の結果によるものです。ですから神様は怒るどころか、それらの出来事に心が引き裂かれるほどの深く悲しんでいるのです。自分が創り、愛している者同士が争ったり、誰かの利己心によって誰かが傷つくのを見なければならないからです。想像できるでしょうか?それは皆さんの大切な人たちが、互いに憎しみあい傷つけ合う時に感じる痛みです。大切な人が自殺を計った時に感じる痛みです。それほどまでに、神様は私たち人間を愛しているのです。そこで私たちに許されている唯一の怒りは、罪に対する怒りなのです。そしてそれは暴力や攻撃ではなく、神と人に対する愛の行為としてあらわされなければなりません。心が張り裂けそうなほどに、私たちが罪に支配されていることを悲しみ、罪から私たちを解放されたイエスが私たちにそう勧めているのです。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:43-45)


3. ジェノサイドを命じる神様?(11)

11 その子らは地から子孫は人の子らの中から断たれる。

  聖書はどこを読むにしても、そのコンテキストを無視すれば、神様の言葉を誤解することになります。この箇所もここだけを読むと神様は、従う民には恵みを与え背く民は絶滅する大変残虐な方ということになってしまいます。しかし、この描写は、ダビデによる民の王の期待の言葉です。皆さんはもう、神様の怒りや、神様と私たちの共通の敵の正体を知っているのですから、旧約の民のように誤解しないでしょう。神様はどの民族も、どのような人々も、どのような文化も滅ぼしなさいと命じる方ではありません。


4. 神様の怒りと全能(12,13)

12 彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ陰謀をめぐらすが、決して成功しない。
13 かえって、あなたは彼らを引き倒し彼らに向かって弓を引き絞られる。

 イエスは十字架で罪に勝利されました。罪の捕虜となっていた私たちを解放し、イエスと共に罪と戦う者として立たせてくださったのです。罪との戦いという意味でなら、ここに歌われているダビデの気持ちに共感し、そうなってほしいと思います。イエスは勝利されたのに、なぜ私は苦戦するのだろう、何度も勝利を収めたはずなのに、私の心の罪はいつの間にか起き上がって、また格闘しなければならないのか?そうなのです。私たちは死ぬまで罪と戦い続けます。この戦いを通して、私たちは神様の愛を深く知り成長します。なんの心配もなく安らぐ時はまだ来ていないのです。
今、遠くで一人で頑張っている皆さんの家族の一人が少し前にこう言って来ました。「みんなに追いつきたくて崖を登るような感覚。背中ではいつも誰かが、『上にいる人たちはおまえのことわかっちゃくれない、もう登るな』 と誘惑してくる。私はそれを受け入れて登るのをやめてしまう。でもまた登り始める。またやめる。また登る。その繰り返し。」 と、そこで私はこう励ましたのです。「登るのはイエスにもっと近づくため!まだなれていない自分になるためじゃない。イエスについて行き始めた時から私たちは皆、本当の自分です。みんなは、向こう側にいるんじゃなくて、一緒に登っている。みんな、いろんな誘惑にさらされながら、転んだり、立ち止まったりしながら登ってる。邪魔する者の声ではなく、イエスの声、祈る友の声に耳を傾けよう。そうできるように祈ります」 皆さんも「神の怒り」の幻に怯えたりしないで、全能の神様の無条件の愛を信じて、一緒に登ってゆきましょう。イエスの声を聞きながら、いのりを共にしながら進んでゆきましょう。そしてもう一つ、歌うことも大切です。というわけで最後に14節に目を向けましょう。


5. あなたの賛美は本物か?(14)

14 御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

 神様に向かって歌うことは、古くから礼拝のコンセプトの中にありました。聖書の中で、主に向かって賛美するという言葉が最初に記録されているのは、出エジプト記の15章です。「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。 主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。」 ダビデも主に歌うことに熱心で、多くの歌を作り、人々にも歌うことを勧めました。この伝統が今まで受け継がれ、形は様々ですが日曜日の礼拝で歌わない教会はほとんどありません。けれども音楽には人を惹きつける魅力があるので、音楽自体や音楽家が神様に代わる偶像になってしまったり、音楽が神様が喜ばれない目的に用いられる危険があるのです。
戦争になれば、賛美歌は最も効果的な軍歌になります。アメリカの教会は賛美歌で兵士を送り出し、日本の教会も賛美歌で兵士を送り出しました。どちらも「神のために相手を倒す」と歌われて神様は大変困ったと思います。
ですから、主に向かって歌うということがどういうことか、神様の意思にかなって音楽を正しく用いているか、よく吟味されなければなりません。ダビデの歌を見てゆくと、ほめたたえる歌だけではなく、自分の思いや願いを伝える内容の歌があることがわかります。ユアチャーチでは、主をほめたたえる歌よりも、自分の思いや願いを伝える内容の歌を多く歌いますが、それは皆さん一人一人が、神様の近くにいること、そしてもっと親密になることが何よりも大切だと考えているからです。今日も主に向かって歌いましょう。そして今までよりももっと主に近づく、主のすぐそばにいることを体験してください。


メッセージのポイント

  旧約時代の人々は神様を民族の神様と考えていたので自分たちの敵を神の敵と自然に考えていました。そこで自分の国の滅びは、背反した民族に対する神様の怒りと受け止めたのです。イエスは、世に来てこの発想を逆転しました。神様と全ての人間の共通の敵は「罪」だということを十字架を通して明らかにされました。聖書の中に見られる、神様の復讐、激怒という人間的な怒りの描写は記者がその文化的、言語的制約の下にあったからの限界です。だからといって聖書が信頼できないわけではありません。ただ私たちはご自身をイエスとして表された時の神様の言葉、行動を基準に聖書を読まなければ誤解しやすいのです。

話し合いのために

1) なぜ神様が怖い(怖くない)のですか?
2) 神様の敵とは?

子供たちのために

 小学生以下の子供たちには、このテキストから神様の怒りについて正しく理解してもらうのは困難だと思いますが、神様と私たちの共通の敵「罪」についてならわかってもらえると思います。そこで、まず9、12-14を取り上げたうえで、子供たちが持っている「敵」のイメージを聞いてみましょう。それからイエス様の敵とは誰だろうかという方向に導いてください。それは特定の人や民族や国ではなく、人間なら誰でもが持っている心の罪です。罪は、自分の罪であれ、人の罪であれ、時には単独で、時には集合して人を傷つけ、平和を壊します。罪は私たちの敵でもあります。イエス様を信じて、イエス様にしたがって行く時に、私たちもイエス様とともに罪と戦い勝つことができるのです。