2017/2/5 あなたもイエスを歌う詩人

永原アンディ
(詩編22編)

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あなたもイエスを歌う詩人

旧約聖書の各巻は伝統的に、律法、歴史、詩と文学、預言に分類されてきました。もちろん今取り上げている詩編は「詩と文学」に分類されていますが、読まれた詩ではなく、楽器の伴奏がついたり、大勢で合唱されたりもする歌でした。残念ながら、そのメロディーがどのようなものであったかは今となってはわかりません。それでも、詩編が歌われたものだということを知った上で読めば理解をもっと深めることができます。この22編の構成は、今のポップミュージックの典型的な構成ととてもよく似ています。


1. メロディー:苦難の中で信頼する (2-22)

 私たちの耳にするポップミュージックでも、同じメロディーに違う言葉を乗せて何回か繰り返す部分があります。大抵はイントロのあと最初に出てくる部分です。歌の全体の主題を違う言葉でより深く、より豊かに表現しています。日本では「Aメロ、Bメロ」などと呼ばれて、2つか3つ多ければ4つこの部分があります。今日の詩編にはそれが3つあります。歌の主題は「苦難の中で神様を信頼する」ということです。そして各メロディーの違いは、苦難の種類の違いです。ダビデは三つの苦難を抱えていたのです。

a. Aメロディー:神との関係における苦難 (2-6)

1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2 わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3 わたしの神よ昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない

 Aメロの苦難は「神との関係における苦難」です。この苦難はあらゆる苦難の根源です。神様が確かに共にいてくださっていると実感できているなら、それ以外の苦難は苦難ではなくなるのです。しかしこの時のダビデはそう感じられませんでした。それは神様の沈黙に直面している人の叫びです。みなさんにもそのような時があったはずです。今もそうかもしれません。そしてこの苦難は、公開されている映画「沈黙」の主題でもあります。そして実は、私たちが先週聞いた、イエスの十字架と復活の間の三日間の神様の沈黙の恐怖と同じものです。

しかしダビデはこの苦難に押しつぶされることはありませんでした。後半になると、神様に叫ぶことをやめ、冷静に今までの恵みを思い起こそうとしています

4 だがあなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方。
5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み依り頼んで、救われて来た。
6 助けを求めてあなたに叫び、救い出されあなたに依り頼んで、裏切られたことはない。 

 自分の感覚に頼っているなら、神様がいないと感じる時もあればすぐに近くにいてくださると感じられる時もあります。今までの恵みを数えることをダビデから学びましょう。私たちがここで共に礼拝を捧げているのは、神様を感じられるという感覚によるものではありません。多くの恵みを頂いているという事実からです。与えられた恵みは多くても、それらの恵みの核心は同じです。それは神様が一人の人“イエス”として私たち一人一人と出会ってくださったことです。イエスは見えませんが存在しないのではないことを私たちは知っています。私たちはイエスと出会い、招かれ、共に歩んでいます。(ここにはまだイエスと出会っていない方もおられます。その方への私たちの何よりの願いは、イエスを知ってほしいということです。知った上でどう付き合うか、付き合わないのかは、みなさんの決めることです。誰も強制できることではありません。イエスが誰よりも親しい友で、誰よりも信頼できるリーダーで、唯一の神様だと信じている者として、あなたにもイエスを紹介したいのです。− これはニューライフクラスの宣伝です。一人でも聞いてみたい人がいればいつでも開きます。ずっと後になってから、何故もっと早く紹介してくれなかったのと言わないでくださいね。)
私たちは、恐怖や不満を口にしてもいいのです。神様はそれであなたを信仰が足りないと叱ったりはしません。イエスは、度々弟子たちに「信仰の薄い者よ」と呼びかけられましたが、それを責めるというよりは「もっと私を信頼してくれれば、そんなふうに苦しまなくてもいいのに」という同情なのだと思います。信仰が足りないと責めるのは、自分の信仰が薄くないと勘違いしている人間ですから、気にしなくていいのです。私たちは、自分の信仰の薄さを嘆くよりするべきことがあります。ダビデのように恵みを数えることです。

b. Bメロディー:人間関係における苦難 (7-12)

7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る
9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。

「あらあら、ダビデさん、恵みを数えていたのにまた落ち込んじゃった」と思わないでください。思い出してください。これは歌なのです。ダビデの自分の苦難を別の角度から歌っているのです。ダビデは三重の苦難を感じていたとお話ししました。Bメロに歌われている苦難は対人関係における苦難です。王様であるダビデが自分は「人間の屑、民の恥」と思われていることに苦しんでいます。みんな私を嘲笑っていると感じて苦しんでいます。敵の攻撃を恐れているとはいえ王様です。それもイスラエルで一番人気の王様です。それでも人々の目が気になります。自分が正しく評価されていない。バカにされている。妄想はいくらでも広がります。みなさんはどうですか?「私にはそんな苦しみはありません」と言えるなら、教会に来なくても自分が教祖になって新しい宗教を始められます。イエスはこのことに関してどうおっしゃったでしょうか?「心の貧しい人は幸いです。天の国はその人たちのためのものである」(マタイ5:3) 貧しいという言葉はネガティヴな印象を与えますが、これは自分の心の貧しさをよく知っているという意味です。もともと、誰であれイエスの助けが必要なのです。自分の心が絶望的に貧しいことを認めなければ助けを求めないでしょう。助けを求めなければ貧しいままです。求めればイエスはともにいてくれるのです。残念ながら、どこかの自己啓発セミナーが宣伝するように、それで自信がつくというのではありません。弱いままです。自己嫌悪に襲われます。それでもイエスはあなたを見捨てずに一緒にいてくれる。天に帰るところを用意していてくださる。それが、良い知らせ=福音です。私たちは「沈黙」のキチジローと同様な者です。作者の遠藤周作もキチジローとは自分自身のことだと言っています。
そこで私たちは、この苦難の下でするべきことは、自分の貧しさを責めることではありません。

10 わたしを母の胎から取り出しその乳房にゆだねてくださったのはあなたです。

11 母がわたしをみごもったときからわたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。

12 わたしを遠く離れないでください苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

 ダビデはここで神様に願います。自分の生まれた時から今に至るまで、いや生まれる前、母の胎内にある時から、あなたは私の神様です。あなた以外に助けてくれる者はいません。

 自己嫌悪に陥っている暇はありません。自分ではどうすることもできないし、怪しいセミナーに行っても騙されるだけです。だからダビデのように叫んで求めたらいいのです。この後のワーシップタイムはそのための時間です。神様の霊はその時、あなたの心を癒し強め、不信感や、自己嫌悪に変えて、過去の恵みの記憶と将来への希望で満たしてくださいます。 

c. Cメロディー:暴力的攻撃における苦難 (13-22)

13 雄牛が群がってわたしを囲みバシャンの猛牛がわたしに迫る。

14 餌食を前にした獅子のようにうなり牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。

15 わたしは水となって注ぎ出され骨はことごとくはずれ心は胸の中で蝋のように溶ける。

16 口は渇いて素焼きのかけらとなり舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

17 犬どもがわたしを取り囲みさいなむ者が群がってわたしを囲み獅子のようにわたしの手足を砕く。

18 骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め

19 わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く

 Cメロで表現されているのは暴力にさらされている者の苦難です。ダビデの苦難は心の苦しさだけではなく、命を奪うような暴力によるものでした。私たちの中にこの恐ろしさの下に身を置いた経験を持つ人はそう多くはないでしょう。ダビデは若い頃から様々な形で命を狙われ、逃げ惑う経験をしています。イエスは逃げ隠れすることはありませんでしたが、その恐怖をよく知っています。イエスは逮捕され、十字架につけられ殺されました。イエスはダビデの三つの苦難を同じように体験されました。マタイによる福音書27章でまとめて読むことができます。今週、今日の詩編とともに、ぜひ読み直してみてください。イエスが捉えられた時、実際に19節でダビデが表現した恐怖を体験しています。そして、十字架にかけられると8、9節のように罵られました。そしてついにご自身の口で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」つまり2節の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」と言われました。神様の助けもなく、すべての友にも見放され、死に至る痛みにさらされていたのです。

20 主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ今すぐにわたしを助けてください。
21 わたしの魂を剣から救い出しわたしの身を犬どもから救い出してください。
22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救いわたしに答えてください。。

 ダビデはこの恐怖の中で、このように叫ばずにはいられません。私たちは、イエスが十字架の上で、私たちの根源的な弱さ、絶望、恐怖を引き受けてくださったことを知っているので、神様はこの叫びに答えてくださることを知っています。けれども、この世が続く限り、この恐怖は世界のどこかで存在しています。日本でも「沈黙」の時代、第二次世界大戦の時代、恐怖は現実となりました。いつまたダビデのように、助けてください!救い出してください!答えてください!と叫ばなければならないことが起こるかは誰にもわかりません。それでも私たちは希望を持ち続けることができます。その理由が残りの部分に歌われています。


2. コーラスとエンディング:希望への務め (23-32)

 ここからは、今までのメロディーABEの現実の中にあっても、私はこう生きるというダビデの決意が歌われています。メロディーはソリストが歌い、このような部分ではコーラスをつけることがよくあるので、英語だとコーラスと言われますが、日本の歌では「サビ」と言われる部分です。一説によると’わさび’のサビです。

a. コーラス:私たちの務め (23-30a)

23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え集会の中であなたを賛美します。
24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25 主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26 それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27 貧しい人は食べて満ち足り主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。

28 地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り国々の民が御前にひれ伏しますように。
29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

 なぜ苦難の中でも歩き続けることができるのでしょう?それはあなたに務めが与えられているからです。ダビデは自分の務めを自覚していました。それは神様から与えられた使命です。使命は、怖くても、弱くても、あなたに一歩先に踏み出させる力です。ダビデは王様なのに、神様を礼拝すること、神様を信頼して恵みを受けようと伝えることが自分の務めだと歌います。王として国を支配するのは、自分ではなく神様なのだと歌います。私たちにとってもおなじです。自分がどのような仕事をしているかはあまり関係ありません。ダビデと同じ務めを与えられています。それは宣教師や牧師の特別な仕事ではないのです。まだ子供でも、学生でも、イエスに従う者の務めには変わりはありません。神様を礼拝することと、イエスを紹介し続けることです。神様に向かって歌うことは与えられた務めですが、あなたが賛美の歌を歌ったところで、イエスの素晴らしさはわかってもらえません。あなたが歌うのは人に聞かせるためではなく、自分の声を神様に届けるため、そして神様の声を聞くためです。しかし、そのことは伝えるために絶対に必要な土台です。皆さんはイエスをその人のところに連れて行って紹介することはできませんが、イエスの香りを伝えることができるのです。イエスの香りとはあなた自身です。(2コリント2:15)イエスの愛の香りです。しかしその香りは、神様を心から礼拝し続けなければ消えてしまう香りです。私たちが何よりも礼拝することを大切にする理由の一つは、目には見えないイエスが誰よりも近くにいることを確認するためです。礼拝を生活の中心にする人なら、神様はいないのでも、黙っているのでもなく、語りかけてくださっていることを知っているのです。だから礼拝することは第一のことであり、伝えることの土台でもあると言ったのです。礼拝することを中心に生きている人が、誰かをイエスがするように愛するときに、この香りがその人を包みます。ただ説明してあげればわかることではないのです。それでわかるならお話の上手な説教者の話を聴かせれば良いのです。 それよりもイエスの香りをまとったあなたが一緒にいてあげることの方がずっと良いのです。時間をかけて、労力をかけて、つまり犠牲を払って愛します。神様を愛し、人を愛する。それが私たちに生きる力を与える、神様がくださった務めです。

b. エンディング:私たちの希望 (30b-32)

私は、その日のワーシップリーダーが、それぞれの曲のどの部分で終わるか、とても興味があります。その部分が私たちが神様に歌いたいことの核心だからです。ワーシップリーダーは、最初から「今日はこの部分を何回繰り返して終わりにしよう」と決めてはいないと思います。歌っている中で「今日はこの部分をもう一度繰り返して終えなさい」といった神様の指示をキャッチしながら私たちの歌をリードしてくれています。今日の歌のエンディングはこうです。

わたしの魂は必ず命を得
31‐32 子孫は神に仕え主のことを来るべき代に語り伝え成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。

この部分が今まで見てきたどの部分の旋律で歌われたかはわかりませんが、この歌詞が最後に置かれるには理由があったのです。これがダビデにとってこの歌の結論です。私たちにとっても。「イエスに愛されているように愛する」それは口で言うほど簡単ではありません。しようとしてできない自分を情けなく思い失望します。「そんなことは無理だからやめてしまえ」と言うささやきがいつも聞こえてきます。あなただけではありません。皆同じです。苦難の中の信頼を歌ったこの歌の結論は、苦難の中でも信頼し続けて行けば、愛し続ければ、その先にこそ永遠の命、永遠の恵みという希望が現実となるということなのです。


メッセージのポイント

 十字架の時のイエスの言葉や出来事を無意識のうちに預言したこの歌は、今を生きる私たちも、苦難の中にあっても信頼し続けることによって自分ばかりでなく、周りの人々を希望の源であるイエスにつなげることができるということを教えてくれています。イエスに向かって歌い続けること、イエスのことを紹介し続けることは、自分と人々をイエスにつなげるという希望を現実にする神様に与えられている務めです。

話し合いのために

1) イエスはどのような気持ちで22節を引用したのでしょう?
2) なぜ私たちもイエスを歌う詩人なのでしょうか?

子供たちのために

詩編は楽器の伴奏とともに歌われたものであったことを伝えて下さい。この部分の歌はありませんが、マーティンが作ってくれた詩編の歌がいくつかあります。易しいものを歌っても良いでしょう。残念ながら昔どんなメロディーで歌われていたかはわかりませんが、昔も今も、神様に向かって歌うことで私たちの心は励まされます。この歌はダビデ王が、辛い時、悲しいとき、怖い時に神様に泣きたいような気持ちを歌い始めると、神様が大丈夫だよと語りかけてくださって心に安心が生まれる様子がよくわかる歌です。しかも、ワーシップソングを歌うことで自分が励まされるだけではなく、聴く人の心を励まし、その心を神様に向ける力もあるのです。歌うことなら子供も大人に負けないくらい良くできます。大きくなったら楽器も弾けるようになってユアチャーチのワーシップリーダーの一人になるのかもしれないよと、神様に向かって歌い続けることを励まして下さい。